第82話 昨日のツケ
哲矢は重い足取りで職務棟の廊下を歩いていた。
ここには良い思い出がない。
昨日の職員室での出来ごとが頭の中にフラッシュバックする。
これで2日間連続なのだ。
余計な目に遭いたくなければ大人しくしていろ、という忠告を破っていたこともあって気は重かった。
別に悪いことをしたという気持ちは哲矢の中にはない。
けれど傍から見れば、哲矢たちが校則を違反しているのもまた事実であった。
前を歩く洋助の背中は、宿舎での親近感ある態度と打って変わってどこか他人行儀に見えた。
ここに来るまでの道中、彼は美羽子に代わって自分が同伴することになった経緯を口にすることはなかった。
それどころか、昨日の件について何も訊いてこないのだ。
そのことが哲矢の不安を大きくさせていた。
思考の海を漂っているうちに、いつの間にか職員室の前まで辿り着いていたらしい。
「失礼します」
ノックをしてドアを開ける洋助の影に哲矢はスッと隠れる。
職員室の雰囲気は、哲矢が昨日訪れた時とほとんど変わらなかった。
どの教師も感情を捨ててデスクで仕事を続けている。
その空気は、完全に冷え切っているように哲矢の目には見えた。
生徒が一人罵倒されていても誰も助けに入らないのだ。
教育者とは一体何なのか。
絶対的な信頼相手という像が昨日に続き哲矢の中で揺らぎ続けていた。
洋助が訪問の旨を声に出すと、ドア付近にいた中年の女性教師(昨日の朝のホームルームにやって来た教師だ)が、「ああ。御大にご用の方で」と気のない対応で立ち上がると、奥の部屋へと消えていく。
社家が来るものだと哲矢が洋助の影に隠れて身構えていると、女性教師は見知らぬ高年の男を連れてやって来る。
哲矢が初めて見る顔の男だ。
体型は痩せ型で背はそこまで高くはないが、背筋はピンと張られていて実際の身長よりも大きく見える。
頭部は半分以上が禿げ上がっていてほとんどが白髪であった。
額には年季の入った皺が幾本も、神から課せられた罰のように太く濃く刻まれている。
60代前半ほどに見えるが、ひょっとすると年齢は洋助とそこまで変わらないのかもしれない。
得てして教師とはこのような年の取り方をするものだという印象が哲矢の中にあったからだ。
高年の男は粘っこい視線で哲矢たちを値踏みするように観察してくる。
しかし、洋助はそれに怯むことなく、簡潔に用件を男に伝えるのだった。
「初めまして。家庭裁判庁羽衣支部からやって参りました風祭と申します。本日はこちらでお世話になっております少年調査官制度の件でお伺いしました」
洋助はスーツの懐から名刺を取り出すと、それを男に向けて丁寧に差し出す。
彼はそれを黙って受け取ると、そこに書かれた文字に目を落としこう口にした。
「これはこれはーご丁寧にどうもぉ。お待ちしておりましたよ。私はこの学園で教頭をしております清川です」
彼はしゃがれ声で名乗りながら頭を下げる。
その挙動一つ見て、哲矢は彼に狡賢い印象を受けた。
はっきり言って好感の持てる対象ではなかった。
「さ、どうぞ。こちらへ」
哲矢と洋助は清川に案内される形で奥にある小部屋へと通される。
その前には不自然な形で一つの机が置かれていた。
(なんでこんなところに……)
哲矢がそんなことを気にしている間にも、先を歩く二人は部屋の中へと入っていく。
ソファーに腰をかけるよう促され、言われた通り洋助と一緒に哲矢はそこに座ると、清川もテーブルを挟んだ向かいのソファーに腰をかけて「煙草を吸ってもよろしいかな?」とにんまり訊ねてくる。
それを聞いて哲矢はびっくりした。
親たちの世代でも教師が職員室で煙草を吸うなんてことはなかったはずだ。
どれだけこの男は時代に取り残されているのかと思う哲矢であったが、洋助は頷いてそれを了解した。
(……マジかよ、勘弁してくれ)
哲矢は口元を押えてその場で顔を伏せる。
隣りに座る洋助は、清川が美味そうに煙草の煙を吐き出すさまを黙って見つめていた。
それからややあって、何かを思い出したように清川が声を上げる。
「あぁ、社家先生なら、都の教員研修会に出席しておりましてねぇ。あれでなかなか仕事ができるんですよぉっ。だからね、本日は私が代わりに」
「そうでしたか。社家先生が見えないのでどうしたのかと思っておりました」
「そうそう、そういうことなんですよぉ」
洋助は特に嫌がる素振りも見せずに清川と会話を成立させている。
急に自分が場違いな存在に思え、哲矢は少しだけ萎縮してしまうのだった。
「すううぅ~~、はあぁぁ~~~~っ、と、いかんいかん」
清川は吸い始めたばかりの煙草を2、3回吸っただけで灰皿にそれを押し込んだ。
「いや~歳は取れないものでね。この間の健康診断の結果が悪くて、一日一服って決めてるわけなんですよぉ。くくっ、酒も旨いんだけどねぇ……。それも控えろって、あの藪医者は言うもんですから」
そう言って清川はげらげらと下品に笑う。
彼が口を開けて笑うたびに黄ばんだ歯茎が覗けて、それが哲矢の嫌悪感をさらに膨らませる。
一方の洋助はというと、清川の世間話に嫌な顔をせず相槌を打って付き合い、彼が本題を切り出すまで辛抱強く待っていた。
コンコン。
ノックの音がすると同時にブラウス姿の若い女性が盆に人数分のお茶を載せてやって来る。
女性がそれをテーブルに置いて部屋から出ていくのを確認すると、ようやくそこで清川は本題を話し始めた。
「何度もお呼び立てしてしまい、申し訳ありませんねぇ」
「いえ、これも仕事ですから」
洋助は涼しげに笑って返す。
「……それで今回、お越し頂いた理由なんですが。そのぉ~なんとも申し上げにくいのですがね」
清川は何か躊躇するようなタメを作った。
きっと、これも彼の話術の一つだろう。
回りくどく汚い大人の手口だ、と哲矢は思う。
「そのぉね。そこにいる関内君。昨日言ってしまったらしいんですよ」
「言ってしまった?」
「あーなんでしたかな。あの、彼の……」
そこまで清川が口にするのを耳にして哲矢はハッとする。
(まさか……っ)
いやそんなはずはないと心の中で唱えながらも、なぜか哲矢は不安を拭い去ることができない。
昨日、美羽子は朝のホームルームの件について『教師と揉めごとを起こした』としか口にしていなかった。
だから、学園側にはクラスメイトに正体を打ち明けたことについてはバレていないと哲矢は考えていたわけだが……。
最悪の予感が瞬時に哲矢の脳裏に過る。
洋助は唇に指を当てて、清川が口にする言葉の続きをじっと待っていた。
やがて――。
哲矢にとって最悪の瞬間が訪れた。




