第64話 麻唯と大貴
メイはウエイトレスに冷めてしまった花の紅茶のお代わりを注文する。
やがて運ばれてきた湯気立つそれを花に勧めて飲ませると、彼女は少し落ち着きを取り戻したようであった。
「……ごめんなさい。また少し取り乱してしまって」
「気にしないで。さっきも言ったけどハナの気持ちはよく分かるから。それで……テツヤ。これからどうするの?」
それは哲矢自身も気になっていることであった。
できれば花を一度学園へ戻したいという思いがあったが……。
「私は橋本君に会いに行こうと思います」
哲矢が何か口にする前に花のそんな言葉が飛んでくる。
続けてメイがどこか納得するように「やっぱりね」と小さく呟いた。
「証拠……それを手に入れるには、直接本人に真相を確かめる以外に手はないと思うんです。今まで何度も橋本君にそのことを訊ねようと思っていました。ですが、一人では怖くて訊けなかったんです。私は……関内君や高島さんが転入して来るまでずっとそうやって悶々とした思いを抱えていたんです」
それがどれほど孤独なことであったか、今の哲矢ならはっきりと分かる。
教師ですら口出しすることのできない相手だ。
花が怖気づいてしまっても彼女を責めることはできない。
(橋本大貴……)
哲矢は改めて彼の姿を思い出していた。
狙った獲物を品定めするようなあの細く引かれた眼光は忘れもしない。
これまでの聞いた話から振り返っても、彼がとんでもない男であることは十分に予想がついた。
けれども、これは先ほども感じたことであったが、哲矢はまだ具体的な彼のパーソナルな情報をほとんど持っていなかった。
これからあの男に会いに行くのならもう少し情報は手に入れておきたいと哲矢は思う。
「川崎さん。橋本についてもう少し詳しく教えてもらえないか? じゃないと俺もちゃんと向き合えないような気がするんだ」
「そうね。テツヤはハシモトについてもっと知るべきね」
「だから頼む。あの男についてもっと詳しく教えてくれ」
花はしばらく湯気の立つ紅茶のカップに目を落としながら沈黙した後、ゆっくりと顔を上げて笑顔でこう口にした。
「そうですね。分かりました。私の知っている範囲になりますが、橋本君についてさらに詳しくお話ししたいと思います」
そう口にした花は疑惑の彼――大貴のパーソナルな情報を掘り下げていく。
「初めに断っておきますが、私も途中から学園に入学した身なので橋本君のことをそこまで深く知っているわけではありません。これはすべて麻唯ちゃんから聞いた話になります」
「その昔、麻唯ちゃんと橋本君はとても仲が良かったようでした。出会いは相当前に遡るみたいです。元々、彼は控えめな性格だったみたいで、どちらかと言えば目立たない生徒のようでした。根はとても優しいって、麻唯ちゃんが懐かしそうによく目を細めていたのを覚えています」
「だけど今は全然違うんだろ?」
「……はい。残念ですけどそうです」
「いつ変わったんだ?」
「それは……」
麻唯が大貴との仲が良好だったのは中等部の頃までだったのだという。
高等部に上がると大貴は麻唯と徐々に距離を置くようになり、やがて関係は悪化。
亀裂は決定的なものとなったらしい。
「ちょうど高等部に上がるタイミングで橋本君のお父さんが桜ヶ丘市の市長に当選したんです。それ以降、橋本君を取り巻く環境は大きく変わっていきました」
「権力を手にしたのか」
「そうです。さっき高島さんが話したように橋本君は自分に従わせる集団を学園内に作っていったんです」
大貴の父親が市長に当選すると、まず教師の態度が豹変したのだという。
メイが言ったように校長がそうするように他の教師たちに指示を出していたのだろう、と哲矢は思った。
彼らは挙って大貴を優遇するようになり、その恩恵にあやかろうと一部の者たちが彼を慕うように集まってきたらしい。
「私も転入早々ではありましたが、橋本君の仲間の間に流れる不穏な空気は感じ取っていました。やがて、彼らの集団は先生たちから優遇されるようになり、学園のモラルはどんどん低下していったんです」
最初のうちはそんな不公平な環境に対して反発していた生徒のグループもあったのだという。
だが、そのうちの一人が理不尽な理由で退学させられてしまうと、そうした声は徐々に少なくなっていったようだ。
「これは噂の域を出ませんが、退学させられたその生徒の家族は学園に入学した際の特権であるニュータウンの住宅保障制度から外されてしまったようで、桜ヶ丘市で生活するのが難しくなり、最後には自主的に引っ越しせざるを得なくなったという話です」
「そんな……」
世間の常識から考えればあまりに横暴な話であったが、桜ヶ丘市との結び付きが強固なこの学園においては、どうやらそれは普通にまかり通ってしまうことのようであった。
大貴たちに歯向かうということは、宝野学園に楯突くことと同義なのだ。
それは生徒個人の問題に留まらず、彼らの家族の生活にも影響が及ぶ問題であるため、大貴たちのグループに関する話題は生徒の間で次第にタブー扱いとなっていったようであった。
「そういった悪しき環境についてはやっぱり私も疑問に感じています。こんなことが平然と許される学校も都内を探してもここ以外にないと思います。それだけこの学園は特殊なんです」
「みんな橋本君たちの行動に我慢していました。なにか歯向かえばどうなるか分からないから黙っているんです。私もそのうちの一人でした。怖くてなにも言えなかったんです」
「でも……そんな中でただ一人だけ。橋本君たちに面と向かって物申すことができる子がいました。それが麻唯ちゃんだったんです」
彼女は周りの生徒たちのように怖気づくことはなく、堂々と大貴とその取り巻きに対して真っ向から反発していたのだという。
昔のよしみが麻唯を豪胆無比にさせていたのかは花もよく分かっていないようであったが、なぜか大貴は彼女を相手にすると折り合いが悪いらしく、何を言われても言い返すことはなかったようであった。
やがて、麻唯が生徒会長の座に就くとその関係はより明白なものとなったらしい。
大貴たちのグループは揃って彼女を避けるようになり、それは教師たちにしても同じようであった。
前例の通りなら麻唯も退学へと追い込まれるところだろうが、学園は彼女の求心力に恐れをなしたのか、そうした横暴な行動に出ることはなかったのだという。
「本当にかっこよかったです。まるで、少女漫画に出てくるヒーローの男の子みたいでした。麻唯ちゃんが現れると橋本君たちは逃げていくんです。麻唯ちゃんの前では立つ瀬がないって感じでした」
「だから……麻唯ちゃんにあんなことがあって入院して学園を休むようになってからはクラスの均衡は少しずつ崩れていきました」
そこで一度話を区切ると花は再び紅茶に口をつける。
隣りに座るメイは黙って彼女の話に耳を傾けていた。
窓ガラスに映る水滴を眺めながら哲矢はそこに反射して映る花の顔を盗み見る。
先ほどまでの荒々しさは消え失せ、落ち着きを取り戻しているように見えたが、やはり悲しみは完全には拭われていないようであった。
途方に暮れて迷っている。
それが哲矢の抱く印象だ。
すでに哲矢は花の表情を見るだけで彼女の心の奥が覗けるようになっていた。
花は紅茶に映る自分の顔に息を吹きかけると、過去と向き合うように言葉を絞り出していく。
「そんな麻唯ちゃんでしたから……多分橋本君たちから相当にやっかまれていたと思います。生徒会長にもなって表面的には順風満帆に学園生活を送っているように見えましたが、それはとても脆い刃の上で立っているようなものだったんです」
「もちろん、麻唯ちゃんもそれは分かっていたと思います。覚悟もしていたはずです。彼らが一線を越えてこうなってしまう結末も……麻唯ちゃんは……」
「ハナ、もういいわ。これでテツヤもハシモトについてよく分かったと思うから。それにあなたの親友に対して強く思う気持ちも理解できた」
「だけど……やっぱりそれもまだ想像の域を出ていないの。ハシモトがマイを恨んでいたのは間違いないのかもしれない。でも、実際に彼女を教室の窓から突き落としたっていう証拠はなにもないわ」
「…………」
「とにかく証拠よ。それを見つけない限り、私たちは将人の無実を証明することができないの」
再び闇の中へ落ちてしまわないようにという思いからか、メイは花の手を強く握り締めながらそう口にする。
女子の間でしか取れないコミュニケーションだ。
哲矢は黙ってその光景を眺め、花の気持ちが落ち着くのを待った。
やがて、彼女は何かを噛み締めるようにゆっくりと頷いて顔を上げる。
「……そうですね。はい、高島さんの言う通りです。まずは証拠……一緒に探してもらえますか?」
「もちろん。ねぇテツヤ、もういいでしょ?」
「ああ十分だ。あの男についてよく分かったよ。一緒に将人の無実を証明する証拠を探そう」
「You bet.決まりね。これで目標がはっきりしたわ」
メイはそう口にするとすぐさまテーブルに置かれた伝票に手をつける。
「となれば、こんなところで話してる場合じゃないわね。外に出ましょう」
「はいっ!」
突然仕切り始めるメイを花は頼もしそうに見つめる。
もしかすると花はメイに麻唯の姿を重ねているのかもしれない、と哲矢はふと思った。
(誰かに頼ることに慣れてしまっているんだ。だけど……)
そんなに弱くはないはずだろ、と哲矢は心の中で彼女に問いかける。
今はただ少し助けが必要なだけで花は十分に強い女の子だということを哲矢は分かっていた。
(今、川崎さんを支えるのは俺たちの役目だ)
哲矢はメイとアイコンタクトを取ると、花を促すようにして三人一緒にテーブルから立ち上がるのであった。




