第54話 九つの空席
哲矢たちが教室の中へ入るとすぐにチャイムが鳴り響き教師が姿を見せる。
だが、そこに現れたのは社家ではなく、見知らぬ中年の女性教師であった。
「えー社家先生は今緊急の会議に出席されています。本日は私が代理でホームルームを担当することになりました」
いつ社家がやって来るかと内心緊張していた哲矢にとってこれは幸運なサプライズであった。
クラスメイトに正体を明かす前に邪魔されるかもしれないと思っていたからだ。
これでこの後がとてもやり易くなる、と哲矢は思った。
「では委員長。号令を」
「きりーつ、れ~い、ちゃくせきぃー」
どこか眠たそうな学級委員長の声が響く。
昨日、勉強で徹夜でもしたのだろうか。
三つ編みの彼女は先ほどからずっと机に伏せて眠っていた。
そう――。
哲矢は周りのクラスメイトの姿をよく観察していた。
誰がどの席に着いてどんなことをしているのかを。
三年A組には哲矢とメイを除くと32名の生徒がいる。
ちょうど男子が16名、女子が16名という計算だ。
昨日、カラオケをしている際に花から聞かされた彼らの簡単なグループ分けを哲矢は頭の中に思い浮かべる。
学級委員長の彼女を含む生徒会所属の女子が3名。
運動部の男子グループが3名。
同じく運動部の女子グループが4名。
受験同盟を結んだ男女の混合グループが4名。
オタク系の男子が2名、一匹狼の男子が1名。
翠と昨日見かけた女子2名のグループ。
あとは哲矢もよく知っている花と将人と麻唯の3名だ。
少し乱暴な括り方のようだが、哲矢としてはとても分かりやすいグループ分けであった。
たとえば、哲矢のことをちらちらとよく覗き見してくるのはある限られたグループだったりする。
運動部の男女7名だ。
どこの学校でも同じだろうが、彼らはクラスのカーストにおいて所謂上位グループだったりする。
意識的にしろ無意識的にしろ、そのような驕りの感情が彼らに大胆な行動を取らせているのかもしれなかった。
このようにグループ分けしてクラスを俯瞰で眺めてみると不透明感は薄まるから不思議だ。
これまでは一括りにして見ていたからこそ、その全容が理解できなかったのであって、一つ一つ区切ってみれば実は恐れるに足りないということがよく分かった。
それそれのグループに応じて手段を変えていけば彼らの心を開くことも不可能ではない、という風に哲矢には思える。
けれど……。
それも把握しているクラスメイトに限った話である。
今挙げたグループだけではクラスメイトの総数には達しない。
まだ9名、どこのグループにも属していない者たちがいるのだ。
その数は、教室のドア側一帯に空いた九つの空席と偶然にも一致する。
果たしてこれはたまたまなのだろうか。
このことを花に訊ねてみた哲矢であったが、結局曖昧に誤魔化されてしまう。
「そのうち分かると思います」と、遠い目をしながら呟く彼女の姿が哲矢の印象に残った。
女性教師が口述する連絡事項をうわの空で聞きながら、哲矢は始業式の日に一度だけ見かけた橋本と呼ばれた男子生徒のことを思い出していた。
彼はあれから一度も登校してきていない。
モデルのようにスラッとした長い脚を持ち、狙った獲物を品定めするように細く引かれた眼光を持つ男……。
(――!?)
その時、哲矢は何か引っかかりのようなものを覚える。
彼のことをつい最近学園以外の場所で見かけたような気がしたのだ。
そして、すぐにハッとする。
(そうだ、昨日の……)
あのフルフェイスヘルメットの男にどこか雰囲気が似ている、と哲矢はとっさに思った。
もちろん、昨晩絡んできた男が橋本と呼ばれた男子生徒であるかは分からない。
イメージとして人を区別してしまうということを哲矢は割りとよくやってしまうからだ。
だがその点を除いたとしても、彼を無条件に受け入れることができるかと問われたら、哲矢はすぐに答えることができなかった。
(とにかくだ)
余計なことは考えないようにしよう、と哲矢は思う。
あの長身の男子生徒はこの場にいない。
大切なことは、今ここにいるクラスメイトたちと真摯に向き合うことである。
(みんなをしっかりと受け入れるんだ)
そうすれば自然と信頼されていくはずだ、と哲矢は思うのであった。
「……えー諸連絡は以上となります。それでは朝のホームルームを終わりにしたいと思いますが、なにか質問のある方はいますか?」
哲矢が意識を戻す頃には女性教師も連絡事項を読み終え、ホームルームも終わろうとしていた。
(……ヤベっ、もうかよ……)
急に出番が目前となったことに気づき、哲矢は焦りを感じ始める。
窓際に座るメイが顔を向けて「準備はいい?」と小声で訊ねてくる。
花もわざわざ後ろを振り向いて哲矢に応援を送ってくる。
緊張の瞬間はついそこまで迫ってきていた。
「なにもないようなのでホームルームを終わりにします。委員長号令を」
学級委員長が号令を唱え終えると、中年の女性教師は教室のドアを開けて廊下へと出て行く。
哲矢はその一挙手一投足に集中し、飛び出すタイミングを計っていた。
(……今だっ!)
そう思い、素早く教壇へ駆け出そうとする哲矢であったが、自身の気持ちとは裏腹に体はまったく別の行動を取ってしまう。
席から立ち上がると、その場で手をスッと挙げてしまったのだ。
クラスメイトをバラバラに散らしてはいけないという思いから反射的に取った行動であったが、一番後ろの席ゆえにほとんど誰からも注目されない。
唯一先ほど話しかけた空席を一つ挟んだ隣りの席の女子だけが困惑の表情を哲矢に向けていた。
(なにやってんだよぉ俺はぁっ!?)
普段、あまりに教室中の視線を集めることに慣れてしまっていたせいか。
手を挙げるという行為だけで皆の動きを止められるものだと哲矢は無意識のうちに考えてしまっていたのだ。
自身の突拍子もない行動に嫌悪感を抱く哲矢であったが……。
「……っ?」
すぐに教室内の異変に気がつく。
クラスメイトらはホームルームが終わってからも動き出す気配なく、席に座ったままじっと固まっていたのだ。
その視線はある一方向へと注がれているのだった。




