第53話 無条件に相手を受け入れる気持ち
「……無条件に相手を受け入れる気持ち。それがあるから相手を信頼できる」
その言葉を聞いた瞬間、メイの動きがぴたりと止まった。
「…………」
彼女はベランダのドアノブに手をかけたまま教室の中へ入ろうとしない。
どんよりとした空へ吸い込まれるように桜の花びらが雨風に運ばれて舞うさまをただ黙って見つめている。
そんなメイの姿を見て、哲矢はまだ彼女とは対話が可能だと悟った。
「メイ、昨日俺にそう言ってくれたよな? 川崎さんにはそれがあったから信頼することができたって」
それには何も答えずにメイは哲矢へ視線を向けた。
「でもさ。その逆はどうだ? 俺たちは出会った瞬間から川崎さんのことを無条件に受け入れることができていたか?」
「それは……」
メイは唇を一瞬悔しそうに噛み締める。
きっと、自分にはできていなかったことが分かったのだ。
「俺は川崎さんのことを受け入れているよ。もちろんメイのことも」
「……っはぁ!?」
「結局、昨日うやむやのままだったからさ」
そう口にしながら哲矢は人差し指で頬をかく。
メイはどこか落ち着きなさげに視線を彷徨わせていた。
この言葉に何も偽りはない、と哲矢は思う。
けれど、順番は逆だった。
信頼できると分かったからこそ、相手を受け入れることができたのだ。
哲矢はメイと花の顔を交互に見ながら続ける。
「……でもこれって、これまで一緒に過ごしてきた上で出した答えなんだよ。無条件なんかじゃない。出会った瞬間、俺は川崎さんみたいに相手を受け入れることなんてできなかった」
「そんな……過大評価ですよ。私だって、誰でも受け入れられるわけじゃないんです」
「うん、もちろん分かってるよ。それだけ難しいんだ。よく知らない相手をありのままに受け入れるってことはさ。ここのクラスメイトなら尚更だ。ほとんど口を利いたこともないどころか、無視されているような状況だろ? 投げかけられる視線は嫌悪感に満ちたものばかりだし。そんな相手を無条件に受け入れることなんて、できると思うか?」
「……っ。そんなのこっちが訊きたいくらいで――」
「俺はできると思う」
哲矢はメイの言葉を遮りながらそう断言した。
「ちょっと待って、言ってることが矛盾してない? ハナと同じように相手を受け入れることなんてできなかったって、今そう言ったでしょ?」
「ああ。言ったよ」
「だったら、なんでっ……」
メイは焦ったように口にする。
その焦燥感がどこから込み上げて来るものなのか、実は彼女も気づいているかもしれなかった。
「……メイ。それはこれまでの話だ、今は違う。俺は……相手を無条件に受け入れる覚悟ができている」
「……っッ……」
「もちろん不安はあるよ。よく知らない相手をそのまま受け入れるわけだから。それに落書きの件もある」
「そ、そうよっ! あれを書いたヤツが教室にいるかもしれないっていうのに、そんな連中を無条件に受け入れろって言うの!?」
興奮気味にメイはそう声を尖らせる。
それは自分に向けた言葉というよりも、彼女自身に向けた言葉のように哲矢には聞こえた。
メイの気持ちは哲矢には痛いほど理解できた。
信じたことにより裏切られるのが怖いのだ。
正直、不安との戦いである。
本当に相手を受け入れられる度量が自分にあるのだろうか、と。
(けど……)
哲矢はメイに顔を向けると、彼女の目を真っ直ぐに捉えながら続けた。
「だけどさ。もしここで彼らを受け入れずに諦めてしまったら、結局なにも変わらないような気がするんだ。結果に妥協して、あんな状況なら仕方なかったって自分たちで慰めて、大人になった時にふとそのことを懐かしく思ったりして……。そうなってしまいそうで怖いんだ。俺は……変わりたい。今までの自分を変えたいんだ」
その時、喉元で閊えていた何かが外れるような感覚を哲矢は抱く。
それはとても奇妙な体験であった。
周りの空間を除いたすべてのものが、静かに停止してしまったように見える。
降り注ぐ雨も、どんよりとした雲の流れも、教室の中にいるクラスメイトたちも……。
今、哲矢の視界に入るのはメイと花の二人だけだ。
二人はそれぞれ思い思いの感情を抱くように、真剣な眼差しを哲矢へ向けていた。
せめて彼女たちだけにも伝わればいいと、その一心で哲矢は言葉を続ける。
「クラスのみんなだって、好きでああいう態度を取っているわけじゃないと思うんだ。これまでニュータウンで過ごしてきた上で培われてきた思いだったり、市や学園の思惑、強固な同族感情、被害者意識など色々な外的内的要因が複雑に絡み合って、今の彼らが形成されていると俺は思ってる」
「……だから、好きであんな態度を取っているわけじゃないから、無条件に相手を受け入れられるって……そう言いたいの?」
「本質的な部分は俺たちとそこまで変わらないはずだよ」
哲矢がそう口にすると、メイは深いため息を吐いた。
「はぁ……。ほんとあんたってお人好しのバカね。ふつーあんな不遜な連中相手にそんな風に思えないわよ。落書きを書いたヤツだって混ざってるかもしれないっていうのに」
「どう思ってもらっても構わない。俺はみんなを受け入れるって決めたから」
「世間にバレたらどうするのよ。誰かSNSにでも上げるかもしれないでしょ?」
「大丈夫。みんなそんなことは絶対にしないさ」
「……どこから来るのよ、その自信は」
哲矢の返答を聞いてメイは再び大きなため息を吐いた。
場の空気を察してか、花が慌てたように間に割って入ってくる。
「それで関内君。正体を明かすって具体的にはどうするんでしょうか?」
「朝のホームルームが終わったら教壇に上がろうって思ってる」
「そこでクラスのみんなにお話するわけですか?」
「そういうことだ」
「どうせ、私にも上がってほしいって、そう頼むつもりだったんでしょ?」
「できれば。そのための奢りなわけだし」
「そんなものはこの雨の中寒い思いして話を聞かされた付き合い料よ。エクレア紅茶セットなんかじゃ全然足りない」
「分かったよ。追加でなにか考えておいてくれ」
「一生私の下で働くことになりそうね」
「へいへい」
どうやらメイもこの話に納得してくれたようだ。
それが分かって哲矢は一安心する。
あとは実際どうなるか。
話してみないことには何も始まらない。
「よっしゃ、それじゃそろそろ中へ戻ろうぜ。もう社家が来るかもしれない」
哲矢がそう声をかけるとメイと花は同時に頷く。
三人は雨に濡れないように気遣いながらサッと教室の中へと駆け込んだ。
黒ずんだ空は不気味なくらい暗く、雨脚はさらに激しさを増している。
まるでこの先に訪れる苦難を警告しているかのように、不吉な象徴として哲矢たちの姿を見守っているのであった。




