第52話 正体を明かそうと思う
メイに言われた通り消毒用のアルコールを吹きかけて雑巾でしばらく擦ると、落書きは綺麗に消えてなくなった。
本来ならばこの件は教師に連絡すべきことだろう、と哲矢は自分の机に目を落としながら思う。
だがこの学園においては、それが相手を喜ばせる行為であるということを哲矢は十分に理解していた。
今はそれよりもこれからについて考えることが重要だ、と哲矢は考える。
朝のホームルームが始まるまではあと少し時間があった。
(……そろそろいいかもな)
哲矢は、席に着いてようやく一息吐くメイと花に申し訳ないと思いつつも声をかける。
「悪いけど二人とも、ちょっといいか?」
手招きをして彼女らを自分の席へと哲矢は呼び寄せる。
「どうしました? またなにかありましたか?」
「なによ。せっかくイベント周回しようと思ってたのに」
不安そうに顔を覗かせる花とは対照的にメイは明らかに不機嫌そうだ。
こちらの動きに反応するように、教室中の視線がちらっと動くことに哲矢は気がつく。
ここから先の話はどうしても周囲に聞かれたくはなかった。
ふと窓の外に目が止まる。
先ほどまで小降りだった雨はその勢いを増して大雨となっていた。
当然、ベランダに出ている生徒はいない。
(廊下に出て誰かに聞かれるよりはいいな)
哲矢はダメ元で二人に提案をしてみることにする。
「あのさ、ベランダに出て少し話がしたいんだけど……どうかな?」
「ベランダですか? めっちゃ雨降ってますけど」
「言いたいことがあるならここで話しなさいよ」
「ここだとちょっと話しづらいんだよ」
そう哲矢が小声で口にするとメイはようやく事情を理解したのか、暫しの間思案してからこう返答してくる。
「……『ヴォージュ・ブルー』のエクレア紅茶セットを二人分。ハナと私に奢りね」
「な、なにぃ!?」
「わわっ! いいんですかっ!? あのお店すっごく高いですけど!」
「……なんだかよく知らんが、分かったよ。とにかくベランダへ出てくれ」
「やった~! ありがとうございます♪」
「ふふっ、しっかり覚えておくから」
その場のノリで哲矢は何だか分からない約束をしてしまう。
どうしても協力が必要な提案だったからだ。
金欠であることはこの際忘れることにしよう……と、哲矢は口を窄めながらベランダへ出た。
◇
外に出ると大量の雨粒が哲矢たち三人を迎える。
寒い上に風も強く吹いていたため、あまり長居できそうな状況ではなかった。
教室からベランダを覗くクラスメイトたちの視線は明らかに不審の色で満ちている。
「うぅっ……」
「つ、冷たぃぃっ!」
哲矢は寒そうにしゃがみ込んで震えるメイと花を自分の近くへ寄せると、単刀直入にこう切り出した。
「正体を明かそうと思う」
「……えっ? 正体を明かすって……まさか」
身を乗り出して驚きの顔を浮かべる花とは対照的に、メイは突然黙り込んで哲矢の顔をじっと見つめていた。
「クラスのみんなにさ。俺とメイが将人の事件のために転入してきたってことを知ってもらおうと思うんだ」
「それって危険なんじゃないですか?」
花のその問いには答えず、哲矢は丁寧にその思いに至った理由を説明する。
「川崎さんも分かってると思うけど、俺とメイはクラスのみんなから全然信用されてない。もちろん、理由は分かってる。外からやって来た異分子だから、俺たちのことを敵のように思ってるんだって」
「でもさ。こんな状況じゃ、将人の無実を証明することなんてできないと思うんだ。将人を信じることは大切だけどそれだけじゃなにも進展しない。証拠が必要なんだよ。将人が冤罪で捕まったっていう証拠が」
「証拠……」
その言葉に花は珍しく真剣な表情で黙り込む。
もしかすると、将人の無実を訴えることに精一杯で、そこまで考えが回っていなかったのかもしれない。
けれどこれはごく当然の話だ、と哲矢は思う。
彼が冤罪で捕まったと主張するのなら、それを証明する証拠が絶対に必要なのである。
「そこで、クラスのみんなから証拠を募りたいと思うんだ。もしかしたら、誰にも打ち明けてない事実を心に仕舞い込んでいる者がいるかもしれないだろ?」
「なるほど……。まだ警察の人にも話していない事実を持ってる子がいるかもしれないって、そういうことですよね?」
「ああ。それを引き出すためにはみんなの心を開く必要がある。そこで俺たちの正体を明かして……」
そこまで哲矢が口にしたところで鋭いメイの言葉が飛んでくる。
「そんなこと、本当に上手くいくと思ってるの?」
納得する答えを聞くまでは引き下がらないという強い意思を感じさせる視線を彼女はぶつけてくる。
「それは……」
その透き通った瞳に対して、哲矢は答えるのを一瞬躊躇してしまった。
(ここでメイを納得させなきゃ、すべて無駄に終わるぞ……)
そう焦る哲矢であったが……。
呂律は空転を繰り返し、哲矢の声が新たに空気を震わせることはなかった。
「――つまりそういうことよ。テツヤは自分にとって都合のいいことしか考えてないわ。正体を明かすってことは、相当リスクのあることなのよ。少年調査官制度が世間に公表されていないことはあんたも分かってるはずでしょ? もちろん、この学園の生徒もそのことは知らない」
「正体を明かして仮にその情報が漏れたらどうするの? それはきっとテツヤだけの責任では負い切れないわ。ヨウスケやミワコをはじめ、多くの大人たちに迷惑がかかる。それだけのことをしようとしているっていう自覚があんたにはあるのっ?」
メイはいつにも増して興奮気味にそう唱えた。
その圧に押され、哲矢は何も返すことができない。
やがて、彼女は何かを諦めたように立ち上がると、「全然足りないのよ」と短く呟いて教室の中へ入って行こうとする。
「あっ……た、高島さんっ……!」
「…………」
哲矢はメイを止めることができない。
彼女の言うことがすべて正論だと分かったからだ。
正体を明かすということは様々なリスクを伴うと同時に、洋助や美羽子への裏切り行為でもあった。
そこまでの犠牲を払ってでも正体を明かす覚悟があるのか、とメイは問うていたのだ。
『これから出す結論にはきちんとした責任を持ってもらいたいんだ』
一昨日の夜、洋助はそう口にした。
自分の出した答えには責任を持つように、と。
それは、哲矢自身が選び取って決めなければならないもの。
(考えろ、哲矢っ……)
今まで見聞きしてきた言葉の中に、これからの道筋を示すものが必ずあったはずなのだ。
そう哲矢が思ったその瞬間――。
脳裏にある言葉がパッと思い浮かぶ。
気づけば、無意識のうちに哲矢はそれを口にしていた。




