第50話 悪意に満ちたラクガキ
後方のドアを開け、哲矢は教室に足を踏み入れる。
朝のホームルームまではまだしばらく時間があったが、その割りには半数以上のクラスメイトがすでに登校済みのようであった。
比較的真面目なクラスなのかもしれない。
「…………」
そして、相変わらずの注目度だ。
ドアを開けただけでも教室中の視線が哲矢にまとわりつくように動き回る。
(……にしても、今日はあからさま過ぎないか?)
これまでなら遠慮気味に視線がいくつか飛んでくる程度だったが、今日はそういう素振りを見せることなく無遠慮に覗き見てくる。
その視線の一つ一つに驚きが含まれていることを哲矢は見逃さなかった。
(そうか……なるほど。そういえば俺の体験入学の期間は過ぎているんだったよな)
当たり前のように学園へ登校してきた哲矢であったが、これは洋助に無理を言って頼んだ結果に過ぎない。
先ほどの社家の言葉の通り、本来ならばここは自分が居ていい場所ではないのだということを哲矢は改めて認識する。
おそらく、一昨日の帰りのホームルームにでも、6日で自分の体験入学の期間が終わる旨が話されていたのだろう、と哲矢は思った。
だから、彼らは驚いているのだ。
ひそひそとした話し声が教室中に広がっていく。
不審に思われているのは明らかであった。
(ここは気にしていても仕方ない)
余計なことは考えず席へ向かおうとしていると、手を振る者の存在が哲矢の視界をかすめる。
「関内くぅ~んっ!」
花はバス停の時と同じように周りの目を気にすることなく、大きな声で哲矢の名前を呼んでいた。
彼女の変わらない態度に、哲矢は少しだけ気持ちが楽になる。
哲矢が笑顔で手を振り返していると……。
「ねぇテツヤ!!」
後ろから追いかけてきたメイに哲矢は呼び止められてしまう。
「どうしたのよ! 急に一人で歩き出したりして! それに『決めた』ってどういうことっ?」
「悪いけどその件はあとで話をする。だから今はやめにしてくれ」
「はぁっ? なによ! せっかく私がっ……」
そう苛立たしげに声を上げるメイであったが、すぐに周りがどういう状況にあるか思い出したのだろう。
それ以上は口を噤んで大人しく自分の席に着くのであった。
「もう用は終わったんですか~?」
「ああ、特にこれといった話はなかったよ」
哲矢は振り返る花に対して何でもなさげにそう答えながら着席する。
「そうでしたかぁ! 高島さんがすぐに職員室の方へ向かったんで、なにかあったんじゃないかって心配してたんですよ~」
「こいつ俺の保護者役を気取っていてさ。こっそりと俺の後をつける癖があるんだよ」
「いつあんたの保護者になったのよ!」
「あはっ☆ なんかかわいいですねっそれ♪」
周りの目を気にしてそんな風に誤魔化す哲矢であったが、花のリアクションがいつもより大げさであることに気がつく。
自分と同じように何か隠しているような気配がしたのである。
(……あれ?)
その時、哲矢はある違和感を抱いた。
(こんなだったか?)
自分の机がこれまでのものと何か異なるように感じられたのだ。
「どど、どうしたんですかっ??」
その哲矢の反応を見て、花がどこかそわそわしたように訊ねてくる。
「いや、なんか机がヘンだなって思ってさ。こんなに新しかったっけ?」
「いいっ!?」
思わずといった様子で花が口元に手を当てる。
教室のざわめきがひと際大きくなったように感じられるのは気のせいだろうか。
そんな風に哲矢が疑問を抱いていると……。
「なにかあったんでしょ?」
メイが何かを察したように花に声をかける。
それを受けた彼女の反応はとても分かりやすかった。
バツが悪そうに口元を引き攣らせると、やがて周りを気遣いながら低い声でこう続けるのだった。
「実は……関内君の机と私の机を換えさせてもらったんです」
「は? どうしてそんな……」
意味が分からず戸惑いの声を上げる哲矢とは対照的に、メイは花が何か隠していることに気づいたようであった。
「なるほどね」
そして、キリッと周りのクラスメイトたちを睨みつける。
メイがそうすると、彼らはとても不自然に視線を背けてそれぞれの世界へと戻っていくのであった。
「なんだよ。どうしたんだ?」
「それよ」
哲矢が訊ねるとメイは花の机を指さす。
後ろからだとよく見えなかったので、哲矢は立ち上がって彼女の机を覗き見た。
「――っ!?」
その瞬間、異様な落書きが哲矢の目に飛び込んでくる。
花はそれが見えないように手で覆っていたが、完全には隠し切れていなかった。
「そ、それ……」
「はい……。さっき関内君の机にこれが書かれているのを見つけてしまって……」
花は観念したように覆い隠していた手をどけた。
そこに書かれた文字を見て哲矢は唖然とする。
『よそ者は消えろ! 死ね! くたばれ!』
悪意に満ちた落書きが机一面に書き込まれていた。
所々消しゴムか何かで擦った形跡が確認できるも、油性ペンで書かれているためか、すべては落とし切れていないようであった。
おそらく花がそうしてくれたのだろう、と哲矢は思った。
「……幼稚なことをするものね。悪趣味この上ないわ」
メイはそう呟いてため息を吐くと、苛立ちを隠すことなく改めて教室中を見渡す。
クラスメイトの誰かの犯行を疑っているのだろうが、一概にはそう決めつけることはできないと哲矢は思った。
この状況では、これを書いた犯人を特定するのが難しいのだ。
同じ学年の誰かかもしれないし、教師の誰かという可能性もある。
もっと言えば、1、2年生の犯行という可能性もあり得るのだ。
つまり、この教室へ出入りができる以上、宝野学園の関係者なら誰でも犯行が可能だったということになる。
土曜日の四時間目まではこのような落書きは書かれていなかった。
そこから推測すると、犯人はその日の放課後もしくは日曜日にこれを書いたということになるのではないか、と哲矢は思う。
(……いや待てよ。今日の朝早くに来て書くこともできたんじゃないのか?)
ただ、このようなあからさまな敵意をぶつけられている状況にあっても、哲矢はそこまで事態を深く受け止めずにいられていた。
宝野学園に通い始めた先週の木曜日から数えて、実際このような落書きを書かれる機会はいくつもあった。
にもかかわらず、犯人はこれを土曜日の放課後以降に書くことを選んだ。
これが意味するのは一つしかない。
(もう俺が学園に来ることがないって思ったからこそ、これを書いたんじゃないのか?)
それが真実だとすれば、犯人は慎重で臆病な人間ということになる。
だからこそ、哲矢はそこまでショックを受けずに事態を俯瞰に眺めることができていたのである。
「それ。そのままってわけにもいかないわね」
「そうなんですけど、なかなか落ちなくて……」
「消毒用のアルコールや除光液があれば多分落とせると思うわ。どこかにないかしら?」
「それなら、もしかしたら化学室に置いてあるかもしれません」
「とりあえず行ってみましょう。他にもなにか使える物があるかもしれないし」
「よし行くか。化学室ってここから遠いのか?」
そう口にしながら、立ち上がる二人の後に自然と続こうとする哲矢であったが……。
「待って。テツヤはここに残って」
「な、なんでだよ?」
メイは哲矢を自分の近くへと引き寄せると小声でこう続ける。
「さっきのこと忘れたの? 途中でシャケに出くわしでもしたら、今度こそ目も当てられないでしょ?」
「そうかもしれないけど……」
「それにぞろぞろと三人揃って行く必要もないわ。ちょっとここで休んでいなさい。すぐに戻ってくるから。……それじゃ、ハナ。案内してくれる?」
「あっはい。こっちです」
花は机に自分のブレザーをかけて落書きを隠すと、哲矢に「ちょっと行ってきますね」と言い残して、メイと一緒に教室から出て行ってしまうのであった。
「…………」
一人その場に残された哲矢は、目の前にあるブレザーのかけられた机を見てふと思う。
根は大分深そうだ、と。
(本当にこんな状況で大丈夫だろうか)
自分の考えた目論みがどこまで現実的なものなのか。
哲矢はそれについて考え始めるのであった。




