第49話 仮面をつけた化物
職員室の前までやって来ると、若干の緊張感が込み上げてくる。
ここを訪れるのは初日に登校した時以来だ、と哲矢は思った。
高まる心臓の鼓動を抑えると、哲矢はノックしてからドアを静かに開く。
ガラガラガラッーー。
「……し、失礼します……」
その瞬間、その場にいる教師の顔が一斉に哲矢の方を向いた。
(……ッ……)
先ほどメイと話をしたせいだろうか。
どうにもここにいる全員が疑わしい存在に思えてきてしまう。
とても居心地が悪い。
周りの温度が急速に下がっていくのを哲矢は肌で感じていた。
本音を言えば今すぐに逃げ出してしまいたかったが、将人の事件を追いかけると改めて決めた以上、こうした細かな試練は一つ一つ乗り越えていく必要があった。
逃げるわけにはいかない、と哲矢は心を強く持つ。
「……あの、社家先生はいらっしゃいますか? ここへ来るように呼ばれて来たんですけど」
思い切って哲矢がそう口にすると、一番手前に座っていた若い男性教師が声を上げる。
すると、少し離れたところに座っていた社家が立ち上がり、真っ直ぐに哲矢の元へ向かって来るのだった。
(……社家っ……)
体がひりっと震え上がるのが哲矢には分かった。
相手に気づかれないように拳を小さく握り締める。
社家の顔には笑みが浮かんでいない。
普段見せる担任としての表情もなく、一昨日脅してきた時と変わらぬ風貌のままだ。
眉をきりっと吊り上げたその険しい顔立ちには、他者を寄せつけない高圧的なオーラがある。
初日、親切に声をかけてきてくれた者と同一人物とはとても思えなかった。
――仮面をつけた化物。
そんな言葉が哲矢の脳裏に浮かぶ。
彼は見下すようにして哲矢の前で立ち止まった。
「来たか」
「…………」
哲矢は何も答えなかった。
ただ拳に力を入れたまま相手を睨みつける。
そんな哲矢の不遜な態度を見て、社家は明らかに不機嫌そうな顔を覗かせた。
周りに他の教師たちがいてもそれを隠そうとしない。
やがて、彼は乾いた笑い声を上げながらこう口にした。
「裏切られたよ」
その言葉には、不意打ちを食らって困惑しているような、そんな響きが含まれていた。
「確かお前の入学期間は3日って話だったよな? まさか延長を申し出されるとは思ってなかったぞ。藤沢さん……だったか? さっき、わざわざ俺の元へやって来たよ。もう少し間、お前をよろしくって言われてな」
「そうですか」
哲矢が抑揚のない声でそう口にすると、社家は一段階声を潜める。
「正直なことを言うとよ、あんま目立ったことはしたくねぇんだ」
どういう意味だ、と哲矢はとっさに思った。
社家が口にしている言葉の真意を哲矢は測りかねる。
だが――。
「デリケートな時期なんでね。うちとしては悪い噂を立てたくないんだよ」
そこまで耳にして、ようやく哲矢は彼が言おうとしていることを理解した。
将人が起こしたとされる今回の事件は、まだ一切世間に公となっていない。
いわば、内々で処理されている状況なのだ。
おそらく、社家はこちらが何かアクションを起こすことを警戒しているのだろう、と哲矢は彼がここまで大胆な行動に出ていることの意味に気がつく。
(少年調査官っていうよく分からない立場にいる俺の存在が怖いんだ)
それが分かってしまうと哲矢は幾分冷静になれた。
主導権が相手側にあるわけではない、ということを哲矢は思い出す。
(そう……これはチャンスなんだ)
社家が気にしているのは悪い噂だけではないはずだ、と哲矢は思う。
もっと個人的なことを警戒しているように哲矢の目には映っていた。
(それを俺が訊き出してやる。主導権をこっちに手繰り寄せるんだ)
そう心に決める哲矢であったが……。
「――ぎッ!? ぅぐッ!」
突然、哲矢は社家に髪をグシャッと鷲掴みにされてしまう。
彼はそのまま哲矢を自分の近くへと引き寄せると、耳元に囁きかけるようにして鋭い言葉を投げつけた。
「この間言ったよなあ? あんまつけ上がるんじゃねぇぞってよ」
「……ち、違うっ! あんたは余計なこと書くなって言ってきたんだ!!」
「んな細けぇー違いはどうだっていいんだよっッ!!」
「ぐッぅ!?」
その瞬間、哲矢は体を思いっきり突き飛ばされる。
ガシャン!!
勢い余って近くのデスクに哲矢は頭をぶつけてしまった。
「……痛ッ……っ!」
もの凄い音が鳴るも、周りの教師たちは見て見ぬふりだ。
まるで、何ごともなかったかのように、慌ただしい朝の始まるを演じている。
「ぐ、うぅっ……」
頭を押えながらしゃがみ込む哲矢に対して、社家は顔を近づけながら低い声で警告してくるのだった。
「いいか関内? 本来ならここはお前が居ていい場所じゃねぇんだよ。これ以上余計な目に遭いたくなけりゃ大人しくしてるこったな」
その醜く歪んだ形相は教師が生徒へ向ける表情とかけ離れていた。
(……くッ……こい、つ……)
まさに化物だ、哲矢は思う。
こんな男に目をつけられたら最後。
相手の言う通り、余計な目に遭いたくなければ大人しくしている以外に方法はない。
「おい、聞いてんのか? 返事はどうしたァッ!!」
何も答えない哲矢を威嚇するよう、社家は右手の拳を思いっきり振り上げて凄みを利かせてくる。
(な、殴られるッ……!?)
とっさに身構え、哲矢が顔を伏せたその時――。
バンッ!!
職員室のドアが勢いよく開かれた。
部屋にいる教師の顔が一斉にそちらへと向く。
(メイっ!?)
入口のドアには、大きな瞳の奥に燃え滾るような意思を忍ばせ、睨みつけて立っているメイの姿があった。
彼女の視線は一直線に社家へと注がれている。
その眼力は、彼に負けないほどの鋭さがあった。
「…………」
メイの姿を確認すると、すぐに社家は振りかざしていた拳を下ろしてしまう。
そして「救われたな」と薄笑いを浮かべると、「ほらもういいぞ。教室へ戻れ」と言って、哲矢の頭を軽くぽんと叩くのであった。
◇
「はぁっ、はぁ……はぁッ……」
地獄から帰還するように職員室から這って出た哲矢は、息も切れ切れの興奮状態でそのまま廊下に座り込んでしまう。
「ちょっと大丈夫っ?」
「……ッ、へ、平気だ……。来てくれて、ありがとう……」
「やっぱ気になってね」
そう言って隣りに座り込むメイの口元には、珍しく優しげな笑みが灯っていた。
普段よりも人間味を感じさせるその立ち振る舞いに哲矢は安堵する。
「あの様子だと……結果を聞くまでもなさそうね」
「あ、あ……悪い。訊きそびれちまった……」
正直甘く見ていた部分があった、と哲矢は反省する。
少し駆け引きをすれば、腹を割って話してくれるものだろうと考えていたのだ。
けれど、実際はそんな雰囲気ではなかった。
相手から向けられる敵意は本物で、こちらが何か言ったところで取り合ってもらえないことは明らかだった。
つまり、話の通じる相手ではないのだ。
「……ふ、そっか……」
哲矢は自分でも気づかないうちに笑ってしまっていた。
腹の底から熱い感情が込み上げてくるのが分かる。
「決めたよ、メイ」
「決めた?」
「上等だ。そっちがその気なら、こっちにだって考えがある」
「ねぇ、一体なにを……」
そう戸惑いの声を上げるメイの傍から離れるようにして立ち上がると、哲矢は廊下を一人で歩き始める。
「ちょ、ちょっとテツヤっ!?」
目指すは三年A組の教室だ。
この時、哲矢はある目論みを思いついていたのだった。




