最終話 坂の下の別れ
「……スプリングブレイクの期間を利用して日本に来たっていうのは……実は嘘なの」
「え……」
「今年のイースターは先月の31日にあったから。本来なら休みはとっくに終わってるの。多分、ヨウスケもミワコもそのことは最初から分かってて、それでもなにも言わずにこの二週間ばかり世話してくれたんだと思う」
「なんで、そんな嘘……」
思った言葉がそのまま口を突いて出てしまう。
それが些細なものだったのなら、哲矢も深くは詮索しなかったことだろう。
けれど、分かってしまったのだ。
その嘘が彼女の芯に関わるものであるということが。
だから、哲矢はとっさにそう訊き返してしまっていた。
〝もっとメイのことを理解したい〟
諦めかけていたその思いが己の中でもう一度灯ることに哲矢は気がつく。
暫しの沈黙を守った後、メイは哲矢の目を真っ直ぐに見つめながらこう返答する。
その決意の込められた表情を見て、哲矢は自身の中で描いていた〝予感〟が現実のものとなるのを感じていた。
「……私。今地元のハイスクールを長い間休んでるの。この前、私の過去について話したでしょ? あの時はなんでもないように話してたかもしれないけど、私にとっては結構真剣な話のつもりだった」
「だって、あの話は……今も私の生活の延長線上にあるものだから。周りと上手く馴染めないっていうのは過去の話じゃなくて、現在も進行中の話なの」
「そんな私を父は父なりに心配してくれていて、父の故郷でもある日本で少しの期間生活を送ってみればなにか変わるんじゃないかって、そう考えてくれてたみたい」
「でもね、私は反対だった。日本語は昔から生活の中で父と話してたから問題なかったけど、見知らぬ土地へ行くことには恐怖があったから。こっちでも上手くいってないのに、まったく初めて訪れる場所で上手くやっていけるわけがないって、そう思ってた」
「でも……結局、私は日本へやって来た。どうしてかしら。自分でもなぜそうしたのか、よく分からないの。ただ、漠然とだけど考えてたことはあったわ」
「父が私のことを心配してくれてるのは本当よ。けど、同時に私のことを負担に感じてることもまた事実だった。私はいずれ屋敷から出て行かなければいけない。それが分かったら、今の自分を変えたいと思うようになったの」
「変わらなくちゃいけないんだって。だからかもしれない。私は自分を変えたくて、日本までやって来たのかもね」
その真摯な告白を哲矢は自身の境遇と重ね合わせながら耳にしていた。
(俺と一緒だ……)
素直にそう思った。
哲矢も何か自分を変えたいという思いを抱いて東京へとやって来ていた。
〝適当に終わらせて早く地元へ帰ろう〟
当初抱いていたそんな思いは、自身を誤魔化すためのカモフラージュに過ぎない。
本当は期待していたのだ。
新しい土地に足を踏み入れ、自分が変わっていくことを。
「ふぅー……」
メイは静かに息を吐き出すと、そのまま空を見上げる。
今、太陽は真上にあり、雲一つなく澄み切っていた。
あと少しもすれば眩しい季節がやって来る。
そんな初夏の訪れを予感させる青空がそこには広がっていた。
正面口では、先ほどから多くの人たちが行き交っている。
メイはそんな慌ただしい中にありながらも、自身と深く向き合っていた。
周囲を気にする素振りもなく、まるでこの空間には自分と哲矢しか存在しないみたいに、とても親しげな声でメイはこう続ける。
「……そんな感じだったから、こっちに来る時はとても不安だった。本当に自分は日本で上手くやっていけるんだろうかって。学校にも通うって話だったから、その不安はより大きかったわ」
「でも、実際こっちに来てみればヨウスケもミワコも本当に親切で、私が過ごしやすいように環境を整えてくれていたの。ミワコとは色々あったけど、それでも私は感謝してた。外国からやって来た私をほとんど家族のように迎え入れてくれたわけだから」
「それに不思議な話なんだけど、日本にいると妙な安心感があるのよ。外見がみんなと似てるってのも当然あるんだけど、なんかすごく居心地がいい。ずっと昔からこの国で生活を送ってたみたいな、そんな感覚があるって言えばいいかしら」
「もしかすると……それはテツヤ。あんたと出会ってからそう感じるようになったのかもしれない。宝野学園に通い始めて、ハナと仲良くなって、ほかにも色々経験して……」
「そういった毎日を過ごしてくうちに自然とこう思えるようになったの。ああ、私はここにいてもいいんだ、って。これまでずっと探してきた自分の居場所がようやく見つかったような気分だった」
どこか遠い過去を懐かしむように、メイは目を細めてそう口にする。
そんな彼女の表情を見て、哲矢は自分の中でストンッと何かが落ちるのが分かった。
〝伝えるなら今しかない〟
そう思うと、躊躇していたその言葉は自然と哲矢の口から溢れ出てくるのだった。
「――だったらさ。一緒にこの街に残らないか? 清川や社家が職を追われていなくなれば、宝野学園に戻ることだってできる。そうすれば、また花たちと一緒に学園生活を送ることだってできるんだ。今度は宿舎じゃなくて、学園の近くに二人でマンションでも借りてさ」
「……うん、そうだ。それがいい。若者の流出がこのニュータウンの問題だってことなら、俺たちが越してくることは桜ヶ丘市としてはむしろ歓迎のはずだ。世間が騒いでる今なら、市長も下手に妨害だってできないはず」
「そうだよ、俺たちにはそれができるんだよ! メイだって本当はそうすることを望んでるんじゃないのか? 昨日の夜、俺に言ってくれたじゃないか。私もその未来に……って。あれは、こういうことなんだろ……?」
思わず感情が高まり過ぎて声が大きくなってしまう。
行き交う人々の目が一斉にこちらを向くのが分かったが、今はそんなものを気にしている余裕がないほど、哲矢はただ一心にメイだけを見つめていた。
きっと想いは同じはずなのだ、と哲矢は強く思う。
(頷いて、くれっ……!)
そんな切実な願いが届いたのか。
「……ええ。本音を言えば、そうよ」と。
メイが静かに口にするのを哲矢ははっきりと耳にする。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が燃えるように熱く焦がれるのを哲矢は感じた。
このまま手を取って喜びを分かち合いたい。
そのような衝動に駆られ、無意識のうちに彼女へ手を伸ばそうとする哲矢であったが――。
「でも……それは正しいことじゃない」
すぐにそうメイに遮られてしまう。
「間違っているのよ。テツヤ」
続けて完全に否定され、哲矢は、自分の気持ちと彼女の想いが実は異なっていることに気がつく。
メイは根本的な認識の誤りを正すように、哲矢に向けて優しくこう語りかけるのだった。
「ここはね。私たちの居場所じゃないの。この場所にずっと居てはいけないのよ」
「っ」
ハッと息を呑む哲矢をよそに、メイは入口の坂へ向けて静かに歩き始める。
彼女の背中が徐々に遠ざかっていくさまを哲矢はただ黙って見つめることしかできない。
ここは自分たちの居場所ではない。
改めて言われなくとも分かっていたことだ。
かりそめの存在であったからこそ、ここまで深くこの街の人々と関わることができたのだ。
役目を終えた今、哲矢とメイの居場所はもうこの街には残されていなかった。
(……分かってたさ)
だからこそ、哲矢はメイに頷いてほしかった。
もう一度、宝野学園に通うという〝誤った選択〟を肯定してほしかったのだ。
もちろん、メイはそうした自分の思いに気づいていたに違いない、と哲矢は思う。
それが分かった上で、『間違っている』とはっきりそう口にしたのである。
甘いその幻想を打ち砕かない限り、自分たちはこれから先へ進めないということをメイは最後に受け入れることができたのだ。
それゆえに、続くメイの言葉は哲矢の胸の奥まで突き刺さる。
道の途中で振り返ると、彼女はこれまでにないくらい感情を込めながらこう口にするのだった。
「……私だって、できることなら日本に残りたいわ。また学園に通って、テツヤやハナたちと一緒に楽しく過ごしたい。ここが自分らしくいられる場所だって分かったから」
「でもね、それは甘えなの。もちろん、これからカリフォルニアへ戻ったところで上手くやっていける保証なんてなにもないわ。ハイスクールでは浮いたままだし、継母との関係も悪いままだし……」
「けど……。私はもうこれ以上逃げたくないの。一つ一つの物ごとと向き合う勇気を、私はこの地へ来て初めて知ることができたから」
「だから、戻らないと。自分のあるべき場所へ。そこで私は――私たちは、もう一度現実に立ち向かわなくちゃいけないの」
まるで、すべてを見通したかのようなその言葉に、哲矢は何も返すことができなかった。
『私たち』とメイは口にした。
彼女は分かっているのだ。
哲矢の人生にもまた、多くの課題が残されているということを。
ふと、哲矢の脳裏に甦るのは地元の風景だ。
退屈な学校。
希薄な友人関係。
先の知れた将来……。
親友を自殺で失ってから、生きているのか死んでいるのか、分からない日々を哲矢はこれまで送ってきた。
きっと、自分はこのまま他者と関係を深く築くことなく、この先も狭い世界の中で孤独に生きていくのだろう。
そんな夢も希望もない未来が、この街へ来て変わろうとしていた。
メイと一緒なら、まったく違った別の未来を描けるという確信があった。
だからこそ、彼女のその言葉は哲矢を深い絶望の淵へと追いやる。
(また俺だけ置いていかれるのか……?)
どこか突き放すようなメイの態度は、哲矢の原体験を刺激するのに十分であった。
あれは、幼稚園の昼寝の時間のこと。
周りの子供たちはすぐに寝つけてしまうというのに、哲矢だけはいつも決まって最後まで寝つくことができずにいた。
一人だけ暗闇の中に置き去りにされてしまったような、そんな焦りにも似た感覚が哲矢の中に甦ってくる。
(もう一度現実に立ち向かわなくちゃいけないだって?)
まったく新しい環境かつかりそめの存在に過ぎなかったからこそ、こうして多くの人たちと関係を築くことができたのだ。
本来の自分はそんなに強い人間じゃない、ということを哲矢は十分に理解していた。
(改めて一から関係を築いてくことなんて……俺一人じゃ無理だ)
それぞれの日常へと戻っていかなければならないということは頭では分かっていても、それを認めることは哲矢にとっては恐怖であった。
彼女なしでは、また同じ過ちを繰り返してしまうのではないか。
そのような強迫観念が哲矢をきつく縛りつけ、身動きを取れなくさせてしまっていた。
「……ダメだよ。俺はメイのように強くなれない。メイが傍にいなきゃ、俺は……」
深い絶望感が哲矢の足を絡め取ろうとする。
そのまま、暗がりの奥へと引き摺り込まれそうになる哲矢であったが……。
(――!)
その瞬間、メイの柔らかな手が哲矢の頬にそっと触れる。
いつの間にか、彼女は再び哲矢の目の前へと戻って来ていた。
メイの顔はいつになく穏やかで、聖母のような微笑みを浮かべている。
相手のことを真っ直ぐに信じているという目を哲矢へ向けていた。
そして、彼女はゆっくり頷くと、静かにこう口にする。
「〝俺の知ってるメイはそんな弱いヤツじゃない〟」
「え」
「あんた、昨日私にそう言ってくれたわよね? そっくりその言葉を返すわ。私の知ってるテツヤはそんな弱い男じゃない。今のあんたなら、誰かを頼らなくても一人で現実に立ち向かうことができるはずよ」
「……メイ……」
「大丈夫。不安になることはないわ。私たちはいつも一緒。距離の問題じゃない。心と心でちゃんと繋がっている。そんな関係に私たちはなれたんだから。そうでしょ?」
「…………」
メイの温もりを頬に感じながら、それでも哲矢は彼女の目をしっかりと見ることができない。
彼女にそう言われてもまだ不安なのだ。
このままずっと自分の傍にいてほしいと、そう思えてしまう。
けれど――。
「もっと自分を信じなさい。そんな風に諦めちゃダメよ」
「っ!」
「……これもあんたの言葉ね。何度だって言ってあげるわ。だって、テツヤがこう言ってくれたのよ。〝自分の力で変わっていくことができるはず〟って」
それを聞いた瞬間、そうだ……と哲矢は思い出す。
(……あれは、なにもメイだけに向けて放ったものじゃない。自身へ宛てた言葉でもあったんだ)
自分の力で変わっていくことができる、と。
メイはその言葉を実践するように、別人へと生まれ変わっていた。
「それに、なにかあれば連絡だって取れるもの。それってこれまでの私からしてみれば、本当にすごい進歩なのよ? いざっていう時に頼れる相手ができたんだから」
「だから……テツヤ。自分を信じて? この先、どんなに大きな壁にぶつかったとしても、自分の力で解決して乗り越えていけることができるって。近くにいられなくても想いはずっと傍にあるわ。私はそう信じてる。だって、私たち――」
その瞬間、流星が降り注いで夜空が輝くみたいに、メイの表情がパッと明るくなるのが哲矢には分かった。
どこまでも澄み切った透明感ある微笑みを浮かべながらこう続ける。
「――最高の友達でしょ?」
眩いほどのその煌めきを目の当たりにして、哲矢はハッとあるデジャヴを抱く。
それは、初めてメイと出会った日に見たあのあどけない笑顔そのものだったのだ。
一週間前は聞くことのできなかったその言葉。
それをついに、哲矢は彼女の口から聞くことができた。
その意味を噛み締めながら哲矢は一度深く頷くと、素直になれなかった過去の自分と決別するように一番の笑顔を貼りつけてこう返事する。
「……そうだな。俺たち、最高の友達だ!」
そう声に出して言ってしまうと、うじうじと悩んでいたことがちっぽけに思えてくるから不思議であった。
距離の問題じゃない。
心と心でちゃんと繋がっている。
それが哲矢とメイが見つけ出した最終的な答えであった。
何も不安になることはない。
お互いに気持ちは繋がっているのだから。
(大丈夫……。俺はこの先も上手くやっていける)
胸いっぱいに覆い尽くしていた恐怖は、いつの間にか消えて無くなっていた。
そんな晴れ晴れとした哲矢の気持ちを察するように、メイが悪戯っぽく表情を崩してこう言ってくる。
「ふふふっ。それでこそ、私のよく知るテツヤよ」
無邪気に笑うメイのその姿を見て、哲矢は――。
〝あぁ、やっぱり俺は好きなんだ〟と。
そう感じていた。
―――――――――――
ギュルルルル~。
突然、腹の虫が瓜生病院の正面口に鳴り響く。
間抜けなその音を聞いて哲矢は思い出した。
これまで気を張っていたため完全に忘れてしまっていたが、昨日の慰労会からまったく食べ物を口にしていないということに。
「……今、同時に鳴ったよな?」
「~~ッ!」
「いや、顔背けてもバレてるぞ」
「し、しかたないじゃない! 昨日からほとんどなにも食べてないんだから!」
「俺もそうだ。あーあ、腹減ったな~」
「…………。たしかに、お腹ちょっとすいたけど……」
「だよなぁ……って、あ」
その時、哲矢は美羽子から渡された五千円札のことを思い出す。
ズボンのポケットからそれを取り出してメイに見せると、「これで昼飯でも食べに行くか?」と哲矢は声をかける。
「それってテツヤの奢り?」
「いや、これは……」
「まあ、違うわよね。そんな大金テツヤが持ってるとも思えないし。どうせ、さっきミワコに呼ばれた時にでも貰ったんでしょ?」
「ちぇ……。さすがにお見通しかよ」
大人として背伸びしたい年頃の哲矢としては微妙に傷つく発言だ。
だが――。
「……けど、次会った時は本当に奢ってもらうから。バイトでもなんでもしてお金貯めておきなさいよ」
「えっ、それって……」
さらりとメイの口から次に会う話が飛び出す。
胸の奥がじんわりと熱くなるのを哲矢が感じていると、メイは気恥ずかしさを誤魔化すためか、わざとらしく大きな咳払いをしてから再び入口の坂へ向けて歩き始めてしまう。
「ほら、食事行くんでしょ? もう12時になるわ。早くしないとランチどこも混んできちゃう」
「お、おいっ……」
どこか嬉しそうに先を急ぐ彼女の長い髪が春風に舞ってふわりと靡いた。
キラキラと輝くブロンドの髪を揺らして歩く背中に目を奪われながら哲矢はふと思う。
自分は本当に大切な仲間と巡り合えたのだ、と。
止まっていた人生の針が再び動き始める音を哲矢は確かに耳にする。
ようやく、スタートラインに立つことができたような気がしたのだ。
(……湯川。俺、やっと見つけたよ)
心の中でかつての親友にそう呼びかけると、坊主頭の彼が優しく微笑んだように哲矢には思えた。
この先の未来。
きっと、様々な試練が待ち構えていることだろう。
楽しいことだけじゃない。
色々と辛いこともあるはずだ。
この世の中は綺麗ごとだけでは済まされないこともあるということを、哲矢はこの18年近い人生の中で学んできた。
けれど……と、哲矢は思う。
傍に仲間がいれば、信じられる友達がいれば、どんなことだって手を取り合って乗り越えていけるのだ、と。
そのことを哲矢はこの街へ来て初めて知った。
「遅いっー! 早く来なさ~い!」
「……ったく。ははっ、しょうがねぇなあ」
新緑の光を浴びながら、手を後ろに組んで坂を下るメイの後を、哲矢は照れ臭そうにして追いかけるのだった。




