第419話 アンビバレント
「…………」
「…………」
引っ切りなしに来院する人たちの姿を横目にやり過ごしながら、哲矢とメイはしばらくの間、無言でその場に立ち尽くしていた。
また微妙な距離が生まれてしまったかのようにメイはそっぽを向いたままで、決して哲矢に目を合わせようとしない。
そのもどかしさが哲矢に緊張感を与える。
(なんか話さないと……)
哲矢は手にしていたスポーツバッグをその場に置くと、会話の糸口を探り始める。
ひとまず、報告しなければならないことがあった。
行き交う人々が一度途切れたタイミングを見計らって、哲矢は恐る恐るメイに声をかけた。
「……実はさ。さっき、藤野が目を覚ましたんだ」
久しぶりにメイに向けて放たれたその声はどこか上擦って響く。
「…………」
それに対してメイは何を言うでもなく、そのまま沈黙を貫き続けた。
このまま無視されるのだと半ば諦めそうになる哲矢であったが、意外にも彼女はそれからすぐに言葉を返してきた。
「そうだと思ったわ。ハナも喜んでるわね」
「あ、ああ……。すごく嬉しそうだったよ」
会話が成立したことで若干緊張がほぐれる哲矢であったが、メイの視線は依然として外に向けられたままだった。
入口の坂にずらりと並んだ葉桜を眺めながら彼女はこう続ける。
「戻らないの?」
「いや、せっかく三人が久しぶりに再会したんだからさ。今俺たちが行っても邪魔になるだけだよ」
「それもそうね」
メイが小さくそう口にすると、春風が優しく二人の間をすり抜けていく。
それと入れ替わるようにして沈黙が再び舞い戻ってきた。
だが、今度のそれは気まずさを感じさせるものではなかった。
それどころか、居心地よく感じられるから不思議であった。
(…………)
今、二人きりでいることをメイはどう思っているのだろうか。
哲矢はふとそんなことを考える。
隣りに立つメイの横顔をチラッと覗き見る。
その瞬間、ブロンドの綺麗な長い髪が柔らかな風にふわりと靡くのが哲矢には分かった。
それを間近で目にして、哲矢は思わずドキッとしてしまう。
これまで身近に居すぎてそのことを完全に忘れてしまっていたが、哲矢は今まで生きてきた人生の中でこれほどまで美しい少女と出会ったことがなかった。
別れが目前に迫った今だからこそ、改めてそのことに気づかされたのである。
彼女の横顔はどこか寂しそうに見えて……。
メイは少し会わないうちに一回りも大人になってしまったかのように哲矢には思えるのだった。
「…………」
ふと、その表情が自分へ向けられたものであるか、哲矢は確かめたい衝動に駆られる。
しかし、上手く言葉が続かない。
何を言っても嘘に聞こえてしまいそうな、そんな気がするのだ。
そのような哲矢の葛藤をよそに、メイは自身の中で何かしら決着をつけたようであった。
二人きりになってから初めてメイは哲矢に顔を向ける。
今度は彼女から哲矢に声をかける番であった。
「……それで、問題は解決したの?」
「えっ?」
「昨日の……」
核心を突く言葉は口にしなかったが、哲矢はメイが何を言おうとしているのかをすぐに理解した。
おそらく、メイはあの大貴からの手紙を読んでいる。
将人が一体何をしたのか分かっているからこそ、問いを投げかけようとしているのだろう、と哲矢は思う。
それに対する答えなら一つしかなかった。
「ああ。すべて解決したよ」
哲矢がそのように返事をすると、メイは静かに「そう……」とだけ答えて、それ以上は深く詮索してこなかった。
何がどのように解決したのか、大よその見当がついているのかもしれない。
だが、実はそれは間違っているのだと、聖菜の件に言及してメイの考えを訂正しようかと思う哲矢であったが、結局それをすることはなかった。
この問題は、すでに自分たちの手に負える範囲を越えてしまっていると思ったからだ。
二人とも明日にはこの地を離れてしまっている存在である。
あとは残った彼らに任せよう、と哲矢は考えていた。
それはある意味、無責任な考えと言えるかもしれない。
けれど、哲矢は心の底からこう思う。
花と麻唯、将人と大貴。
この四人なら、たとえこの先どんなに辛くて困難な道のりが待っていたとしても乗り越えていける、と。
哲矢はこの地に降り立ち、これまで価値観がひっくり返るほどの経験を数多くしてきた。
その中心にいたは紛れもなく彼らであった。
彩りを忘れたこれまでの人生において、哲矢は彼らと触れ合っていくうちに自分の色を思い出していったのである。
この先に待ち受ける問題はそう単純なものばかりではないのかもしれない。
時に理不尽さに挫けそうになることもあるだろう。
それでも哲矢は信じている。
自分の人生に色を取り戻すきっかけをくれた彼らなら乗り越えていけるはずだ、って。
きっとそれができるはずだ、と。
最大限の感謝を込めて、哲矢はそう信じていた。
そして――。
もう一人。
感謝しなければならない相手が哲矢にはいた。
(メイ……)
自分の価値観を変えたという意味なら、目の前の彼女との出会いが一番大きいかもしれない、と哲矢は思う。
目を閉じれば、これまでこの街で過ごした日々の出来ごとが走馬灯のように哲矢の頭の中を駆け抜けていく。
ふと、先ほど美羽子に言われた言葉を哲矢は思い出した。
(そうか……。今日で本当に最後なんだ)
一緒にいられる時間があと僅かであるということを認識したためか。
思わず感傷的な気分となってしまう。
明日になれば、メイとはお互いに手を伸ばしても決して届かない距離まで離れ離れとなってしまうのだ。
そんな状況が背中を押したのかもしれない。
哲矢はつい普段は口にしないような言葉を零してしまう。
本心に近いその言葉を――。
「……あのさ。メイ……」
「……? どうしたの?」
「いや……昨日、俺がパン屋を飛び出そうとした時……。その……お前が呼び止めてくれたっていうのに、俺……。それを無視するように行っちまって……」
「…………」
哲矢が何を言おうとしているのか、すぐに察知したのだろう。
メイは少しだけ表情を曇らせる。
「ほ、本当にごめんっ! 俺……バカだからさ。あの時、自分が最低なことしたって自覚が今の今までなくて……」
しどろもどろに哲矢が話すさまをメイはただ黙って見つめていた。
彼女が何を考えているのか、その感情は読めない。
気恥ずかしさも先行して哲矢はさらに早口となってしまう。
まるで、自らの意思で泥沼に足を突っ込むみたいに、言葉は本心へ向けてどんどん加速していく。
「……そ、それで、もしさ。俺がまた自分を見失って暴走しそうになったら……その……。また、呼び止めてくれないか……? そしたら俺、今度こそきちんと立ち止まれそうな気がするんだ」
ドクン、ドクン、ドクン、と。
心臓の鼓動が急速に高まっていくのが哲矢には分かった。
脳裏に過るのは、昨夜、第五区画を目指して二人で歩いている最中にメイが零した言葉だ。
『だからね、私もその未来に……』
あの時、彼女は歩み寄ろうとしてくれていた。
だが、それを哲矢が拒んでしまった。
そうしなければならないという抑止力にも似た使命感に突き動かされたからだ。
言葉を遮ったことで結果的にメイの気持ちに変化を与えることができたわけだが、哲矢は本心を隠したままであった。
それを今まさに哲矢は自分の口から言おうとしていた。
今さらなにを……と、メイに思われるかもしれないという恐怖を抱えながら。
(でも、これが俺の今の率直な気持ちなんだ)
哲矢としては、きちんと自分の想いはすべて伝えたつもりであった。
あとは彼女の返事を待つだけで――。




