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第416話 青春の瞬き

「――このバッグはさ。4年前の誕生日に渡そうって思ってた物なんだ。だけど、これを渡してしまうと、なんだか一生麻唯に会えなくなってしまうような気がしてさ……できなかったんだ」


「……っ、うぅ……っ」


「でも今は違う。俺はもう麻唯の傍から絶対に離れない。だから……今度こそ、これを受け取ってくれないか?」


 麻唯は目を真っ赤に腫らしながら、ピンク色のショルダーバッグに視線を落とす。

 ポリ袋にはまだいくつか泥が付着しており、プレゼントの見栄えとしては最悪だった。

 

 けれど、麻唯はそれを静かに受け取ると、大切そうに胸元に抱えながら、再び声を詰まらせて大声で泣くのだった。


 きっと、様々な感情が彼女の中で絡み合っているに違いない、と哲矢はむせび泣く麻唯の姿を見ながら思う。

 それほど、今の二人の関係は簡単には言い表せない複雑さがあった。


 〝なんだか一生麻唯に会えなくなってしまうような気がして――〟


 そんな言葉を耳に焼きつけながら、哲矢の頭に過るのはこんな想像だ。


 ひょっとして、将人は4年前に誕生日プレゼントを麻唯に渡して、自らの想い――好きだという気持ち――を洗いざらい彼女へ告白するつもりだったのではないか、と。

 たとえ、それがどれほど倫理から外れた内容だったとしても……。


 実際、それを口にしていたなら、少なくとも彼らは今のような関係にはなっていなかったはずである。

 良し悪しの問題ではない。

 それもあり得た二人の未来だったのだ。


 カーテンの隙間から差し込む陽光がバッグに顔を埋めて体を震わせる麻唯の上に淡い光の波紋を作り上げていた。


(藤野は分かってるんだろうか)


 もちろん、哲矢にはその答えを知ることはできない。

 だが――。


「……っ、ひくっ、ぅ……、ま……麻唯ぁ……将人ぉのこと、がぁっ……」


 思わず言葉が零れ出てしまったのだろう。

 様々な感情がごちゃ混ぜとなり、自身で制御できなくなってしまっているのだ。


 涙を必死で堪え、将人の目をはっきりと見つめながら訴えたそのひと言によって、すべてが白日の下に晒されようとしていた。


 真っ先に、哲矢は〝ダメだ!〟と思った。

 麻唯が口にしようとしているそれが、今の二人の関係に終止符を打つものであることが分かってしまったのである。


 とっさに哲矢の手は彼女へと伸びていた。

 この場の均衡を保とうとする思いが無意識のうちに働いてしまったと言ってもいいかもしれない。


 しかし――。


 哲矢が麻唯を止めるよりも先に将人の体が動いた。

 彼は麻唯の唇に静かに人差し指を当てると、笑顔を見せながらこう呟く。

 周りに聞こえるかどうか分からないという程度の声で。


「違うよ、麻唯。それは嘘だ。ウソなんだよ」


「……え……」


「俺は……キミのお兄さんなんだ」


「……ま、さ……と……?」


「これからはずっと傍にいるって誓うよ。たとえこの先なにがあっても。一緒に乗り越えていこう。俺たちが二人で手を取り合えば、なんだって乗り越えていける。だって、俺たちは……世界でたった一人の、血の繋がった兄妹なんだから」


 将人がそう口にした瞬間、麻唯は複雑そうな表情を浮かべてバッグに視線を落とした。


 彼女の返答次第では、この後に何が起こっても不思議ではないといった空気が室内に張り詰める。


(…………)


 思わず哲矢は唾を飲み込んだ。

 彼らの出会いから今日までの日々の清算が今この瞬間なのだということが分かったからだ。


 けれど……。

 そう気負っていたのは、どうやら哲矢一人だけのようであった。


 麻唯はすぐに顔を上げると、これまで泣き崩れていたのが嘘のようにパッと表情を明るくさせてこう答える。


 それは、庭地に咲く一輪の向日葵のように哲矢には輝いて見えて――。


「……そう、だね。うん……うんっ。ありがと……ありがとう、将人……」


 どこか自身の中で決着をつけるように笑顔を見せる彼女の瞳には、もう涙は浮かんでいなかった。











――――――――――――











 それから――。

 二人は、これまでの失った時間を取り戻そうとするように、お互い肩を寄せ合いながら仲良く語り始めた。


 そんな彼らの姿を見て、これ以上は自分が立ち入っていい領域ではないということを哲矢は悟る。

 床に置いていたスポーツバッグを手に持つと、哲矢はそっとドアを開けて、静かに病室を後にするのだった。


「…………」


 廊下に出て一人きりになってしまうと、哲矢は急に現実感が遠のいていくのが分かった。

 昨夜から続いた一連の出来ごとはすべて幻だったのではないかという思いがしてしまうのだ。

 けれど、どれも実際に起こったことであった。


「なんか……帰りたくないな」


 ふと、そんな言葉が零れ落ちてしまう。


 適当に終わらせてすぐに地元へ帰るつもりであった東京での暮らしは、気づけば10日以上が経過していた。


 すべて終えてしまった今、哲矢の胸に去来するのはぽわぽわとした陽だまりのような感情だ。

 それでいて寂しさも込み上げてくるため、何とも形容し難い感覚を哲矢は抱いていた。


 しばらくの間、麻唯の病室の前で立ち止まりその場から一歩も動けずにいると、背にした病室のドアが突然開いて将人が姿を現す。


「……あっ! 哲矢、こんなところにいたのか。出て行くなら出て行くって……」


「ッ」


 哲矢は薄く浮かべていた涙を悟られないように素早く拭き取ると、すぐに笑顔を浮かべて将人の方に向き直る。


「いやぁ~俺がいると邪魔じゃん? もっと話してこいよ。せっかく藤野が目覚ましたんだからさ」


「うん、ありがとう。えっと……そうなんだけどさ。キミにも話しておきたいことがあって」


「俺?」


 将人は病室のドアをしっかり閉めると、いつになく真剣な表情を浮かべてこう続ける。


「あのさ……。やっぱり、警察へ自首しに行こうって思うんだ」


「えっ」


「聖菜さん――いや、母さんだけのせいにはできないから。4年前の閏日、俺があの男に対して瀕死の重傷を負わせたことは間違いないんだ。それに、いつまでも大貴を鑑別局に入れておくわけにもいかないし。麻唯の転落事故の真相も併せて告白してこようと思うんだ」


「…………」


「それで、すべてが終わった時は……。アイツにこの体を返そうって思う。何年かかるか分からないけど……でも。きっと、麻唯も分かってくれると思うから」


 哲矢は、どこか人間として一つ成長を遂げたような将人の真剣な眼差しを見て、静かに息を吐く。


「そうか」


「……責めないんだね」


「だって、藤野は分かってくれるって、そう思えたんだろ? だったら、俺にはもうなにも言えないよ」


「哲矢……」


「すべてお前が選んで決めたことだ。俺に言えることがあるとすれば、たとえ罪を償うのにどれくらい時間がかかったとしても、いつかは手紙に書いた約束を守ってほしいってことだけさ」


 そう言って哲矢が笑みを浮かべると、将人はその言葉を胸の深いところへ刻むようにゆっくりと頷いてから、「本当に……色々とありがとう」と感謝の気持ちを述べるのだった。

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