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第415話 わずらい

 ふと、誰かを呼ぶ声に哲矢は気づく。


「うぅっ……ぅ……っ……、え…………?」


 将人もその微かな音に気づいたのだろう。

 掛け布団に抱き着くようにして埋めていた顔をそっと上げると、彼はその声がした方へゆっくりと目を向ける。


 すると、そこには――。


「…………ま……さ…………」


 薄ぼんやりと瞼を開き、将人に手を伸ばす麻唯の姿があった。


「……ッッ、ううう……う、うそ、うそッ嘘っ…………ま、まいっ、まいッ麻唯ぃぃッッ!!」


 目を真っ赤に腫らした将人が掛け布団の上から彼女の体に思いっきり飛びつく。


「麻唯ぃ!! ま、ま、まいぃぃっ……ま……ぅうう、ああ゛ぁぁっッーーーー!!!」


 何度もその名前を口にしながら、将人は感情を爆発させて泣き続ける。

 これまで溜め込んできた想いが一気に溢れ出てきてしまって、自分でも制御することができなくなっているのだろう。


「…………ふ……ふふ……」


 そんな風に泣き崩れる将人の姿を見て、麻唯は口元に笑みを灯す。


「……あか……ちゃん、みた……い……」


 白く透き通った麻唯の手が、泥だらけとなったくちゃくちゃの彼の髪をゆっくりと撫でる。

 まるで、聖域のような空間がそこにあった。


「…………」


 哲矢はただ傍観者としてその光景に目を奪われていた。

 本来ならば、ここは他人が足を踏み込んでいい領域ではない。

 けれども、自分はこの場所にいる。


 その事実が哲矢としては堪らなく嬉しかった。


 そして、二人が互いに手を取って抱き合うさまをじっと眺めながら、哲矢は自身の中で積み重ねてきたある想いが静かに浄化されていくのを感じる。


 あぁ、これでよかったんだ、と……。


 親友を救うことのできなかった過去の自分。

 そんな昔の自分と、ようやく向き合うことができたような気がしたのだ。


 そっと、哲矢の脳裏にかつての親友の横顔が過る。

 彼は今、哲矢にあの眩しいくらいの笑顔をもって笑いかけていた。




 ◇




 それからしばらくの間、将人は感情を昂らせながら、麻唯に対して謝罪の言葉を口にし続けた。


 傍から見ているだけでもその姿は痛々しいもので、だからこそ、彼の後悔の大きさを哲矢ははっきりと感じ取ることができるのだった。


 その間、麻唯はひと言も言葉を発することなく、将人の手を取りながらただ黙って耳を傾けていた。

 まるで、彼のすべてを優しく受け止める聖母のような態度で。


 やがて――。


 ようやく将人が落ち着きを取り戻すと、麻唯は彼の元から抜け出すように体をゆっくりと起き上がらせ、自らの思いを静かに吐露し始める。


「……麻唯ね。ずっと夢見てた。そこでは〝お父さん〟と〝お母さん〟が仲良く一つの家で暮らしてて、麻唯と歳の変わらない〝お兄ちゃん〟もいたんだ。心の中がぽかぽか暖かくて、麻唯は幸せだった。家族のみんながいつまでも笑顔で暮らしてるの。そんな夢」


「それって……麻唯が一番望んでたものだったから。だから、ずっとこのままでいたいって……そう願ってたんだけど。家の外から麻唯たちに向けて誰かが言うんだ。そのままじゃダメだよって」


「そこにいちゃダメなんだって。外がどんなに暗くて、寒くて凍えそうな場所でも、こっちに来なきゃいけないって、誰かが言うの。麻唯は……その声をずっーと無視してた。だって、目の前にはさ、こんなにも幸せな空間があって、麻唯の望むすべてがそこにはあったから」


「ここから離れたくないって一心で、麻唯は家の中に閉じこもってたの。でもね。声は次第に無視できないくらいに大きくなっちゃって……。麻唯はその声に押し潰されちゃった」


「麻唯……」


「あの日の放課後。将人に話があるって言われてさ。その瞬間、感じたのよ。あれ、なんか昔の将人っぽいなーって、懐かしいなって。でも、なんか同時に嫌な予感みたいなものもあって……。最後まで話を聞くか迷ってたの」


「だからね。将人にさ、『自分は多重人格者だ』って告白された時は……不思議なんだけど、麻唯、すぐにそれ受け入れることができたんだよ? もちろん、驚いたけどね。だけどさ、今まで将人にあった違和感の正体はこれだったんだーって、はっきり分かって納得できたんだ」


「…………」


「麻唯がダメだったのはその後の告白。お父さんを殺したって……将人、なんの躊躇もなく言ったよね? その言葉を聞いた瞬間、一瞬にして現実が遠のいて行くみたいだった。なんていうか、足元がスポッって抜け落ちたような……そんな感じ。当然、信じられなかった。ううん……違うの。信じたくなかったって、そう言った方が正しいかもしれない」


「だって、麻唯は……。心のどこかで将人の引っ越しと、お父さんの失踪はなにか関係があったんじゃないかって、ずっとそう思って生きてきたから。だから……突然、正解を言い渡されたみたいで……麻唯、怖かった。信じたくなかったんだよ」


「本当は将人に否定してほしかったのかも。お父さんの失踪と自分の引っ越しはまったく関係なかったって。だけど、麻唯がいくらそんなこと思っても現実が変わることはなくて。追い打ちをかけられるように、あの話を聞いた時は……。これまで喉元の辺りで堰き止めてたものがまるでダムが決壊するみたいに勢いよく溢れ出るのが麻唯には分かったんだ」


「頭の中が真っ白になって、パニックになっちゃって……。あの時、色々将人にヒドイ言葉投げつけちゃった気がする。だけどね、ホントはそんなこと口にしたくなかったんだよ? 将人と、実は血の繋がりのある兄妹だったなんて、そんな話……聞きたくなかった。だって、麻唯は――」

 

「……もういい。もういいんだ、麻唯……」

 

 その時、そんな将人の弱々しい声が病室に木霊する。


「……ちょ、っと……将人……?」


 将人はそのまま麻唯の体をきつく抱き締めると、微かに声を震わせながら懺悔のような言葉を口にする。


「今までツライ思いをさせてしまって……本当にごめんな……」


「……将人……」


 急に抱き着かれたことに麻唯はビクッと驚きながらも、将人から離れようとはしなかった。

 まるで、初めて恋に落ちた男女のように、二人は互いの体温を確かめ合っているように哲矢には見えた。


 だが、それが幻であることを哲矢は知っている。

 当然、誰よりも強く抱き合っている二人がそのことを一番よく分かっているに違いなかった。


 それからしばらく麻唯の温もりを肌で感じていた将人はそっと彼女から離れると、改めて謝罪の言葉を口にするように小さくこう呟く。


「……俺が……迷わせてしまったんだ。ごめん。すべて、俺のせいなんだ、麻唯……本当にごめんっ……!」


「……そんなのって、ない……よ。麻唯たち、血の繋がった……兄妹だった、なんて……そんなの、そんなのぉ……」


 しゃくり上げるように声を詰まらせた麻唯は、これまで落ち着きを見せていた表情を一変させると、そのまま一気に泣き崩れてしまう。


 胸が張り裂けるような切ないむせび泣きを繰り返す麻唯の背中を見つめながら、哲矢は現実はどこまでも残酷なんだ、ということを知る。


 お互い距離を縮めて寄り添い合いたいのに、それができないもどかしさ。

 そんな二人の感情が哲矢にダイレクトに伝わってくる。


 もちろん、哲矢にできることなどなにも存在しない。

 傍観者の立場である以上、口出しをすることはできない。

 これは、彼ら二人の問題なのである。


 ただ黙って状況を見守るしかできないのだ。


 ――だからだろうか。


 将人がスツールに置かれていたピンク色のショルダーバッグをそっと手で取ると、「それだ!」と思わず心の中で小躍りするように、哲矢の気分は少しだけスカッと晴れる。

 

 それを将人はベッドの上で必死に涙を拭い取る麻唯に向けて差し出す。

 

 彼が何か声にする前から哲矢には分かっていた。

 これから将人が過去との決別を表明する言葉を口にするということが。


 哲矢は黙って彼の話に耳を傾けるのだった。

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