第410話 ラストレター-19
私のよく知る一番会いたかったあなたに会えるかもしれないというのは嬉しい誤算でした。
ですが……同時に不安も存在しました。
以前の人格があなたの中に戻ったのだとすれば、きっと夫の件で自首するに違いないと思ったのです。
夫を襲った日を境に人格が交代してそれができていなかったのだとすれば、今まであなたが警察に自首しなかった理由の説明もつきます。
大貴君もそれが分かっていたからこそ、一人で警察に行くような真似はしなかったのではないでしょうか?
なんとなく、そんな気がしてしまうのです。
おそらく、彼はあなたが多重人格者であることが分かっていたのでしょう。
そうでなければ、あなたを麻唯や他のクラスメイトを襲ったという犯人に仕立て上げることなどできなかったはずです。
人格がまったく新しいものへと変わっているって気づいたからこそ、大貴君はでっち上げの計画を思いついたに違いないのです。
たとえば、「福岡へ引っ越した後は人格が入れ替わる」というような旨をあなたが大貴君に事前に話していたとして、「人格が再び戻った際は一緒に自首しに行こう」と取り決めを交わしていたのだとすれば、未だに大貴君が夫の件についてなにも口にしないことにも納得がいきます。
でも、ということは、大貴君はあなたとの約束を守り続けているということになります。
この仮説だと大貴君の行動に色々と矛盾が出てくるため、多分そのような事実はなかったのでしょう。
いずれにせよ、あなたの人格が戻るということは大きな問題を引き起こす可能性がありました。
私にとっては無視できない問題です。
あなたが自首しようとするならそれを止めなければなりません。
結果的にそれは私が警察へ出向くことを意味していました。
ですが、分かってほしいのは、なにも私は自分の罪を隠し通したい、完全犯罪を成し遂げたいというわけではないということです。
いずれはすべて清算するつもりでした。
ただ、麻唯が成人するまでは……。
せめて傍にいてあげたいという思いがありました。
これまで私はこの子を傷つけてばかりで、守ってあげることができずにいました。
夫の脅威に対してなにもしてあげられていなかったのです。
麻唯に贖罪し続けることは私の義務とも言えました。
しかも、今のこの子はいつ目を覚ますか分からないという状態にあります。
どうしても離れられないという思いが私にはありました。
しかし、手紙の冒頭にも書いた通り、私にとってあなたは麻唯と同じくらい大切な存在です。
謂れのない罪であなたを自首させるわけにはいきません。
だから、その瞬間が来たら……と。
私は覚悟を決めておりました。
麻唯の元を離れることも、警察にありのままの事実を打ち明けることも。
そして……。
いよいよその時が訪れたことを私は理解したのです。
花ちゃんに勧められるようにして麻唯の手をしっかりと握り締めたあなたは、突如、雄叫びのような奇声を上げたかと思うと、この子が眠るベッドを激しく揺らし始めました。
その突拍子もない行動を起こしたあなたの表情は、今まで見たこともないくらい苦痛に歪んでいて、私は自身の確信が最悪の形で表に出てしまったことを悟りました。
すぐさま私は緊急ブザーに手を伸ばしました。
このままだと麻唯はおろか、周りの子たちにも危険が及んでしまうと思ったからです。
果敢にも関内君が一瞬の隙を突いて暴れ回るあなたを取り押さえ、駆けつけに来てくれた看護師の方たちに拘束される形であなたは病室の外へと連れ出されていきました。
騒ぎの収まった室内は、まるでこの一室だけ荒波に飲み込まれてしまったかのように乱雑に散らかっていました。
その光景を目の当たりにして、私は自分の判断を呪いました。
ここまでの事態に発展するとは予測できていなかったとはいえ、やはりあなたと麻唯を会わせるべきではなかったのだと後悔しました。
ですが、そう思うと同時にこうなる運命だったのだと、どこかで納得してしまっている自分がいることも確かでした。
もしかすると、これは避けて通れない道だったのかもしれません。
幸いにも麻唯には怪我は見当たりませんでした。
掛け布団とシーツが少し乱れた程度で、いつもと同じように静かな寝息を立てて眠っておりました。
私は麻唯の頬にそっと触れ、片方の手でしっかりとその透き通った手を握り締めました。
体温を直に感じたかったのです。
マネキンのように冷え切っているということもなく、麻唯の体は温もりで満ちていました。
それは麻唯がしっかりと生きようとしている証とも言えました。
では、なぜ依然として目を覚まさないのか。
医学的な常識を越えて麻唯は今も眠りの森を彷徨い続けています。
あなたとの接触が引き金となって目を覚ますということもありませんでした。
私と別の意味でこの状況に打ちのめされていたのが花ちゃんでした。
彼女はその場にしゃがみ込んで周囲に散らばった花瓶やら小型テレビやらを茫然とした様子で眺めていました。
きっと、こんな騒ぎになるとは考えてなかったのだと思います。
ただ、純粋に壊れてしまった関係を元に戻したかっただけなのでしょう。
けれど、それは想像以上に過酷な道であるということに、花ちゃんはこの時になって初めて気づいたのだと思います。
その溝が思いのほか深く広がってしまっていることを彼女は知らなかったのです。
しばらくすると、看護師の方たちと一緒に廊下へ出ていた関内君が病室へと戻って来ました。
その表情は幾分疲弊しているように見えました。
彼もまさかこんなことになるなんて思ってもいなかったのでしょう。
ひょっとすると、あなたが多重人格者であることにも気づいていなかったのかもしれません。
関内君や高島さんと一緒に辺りに散乱した物を片づけている最中も私の心はここに在らずといった状態でした。
時間が1分1秒と過ぎれば過ぎるほど、罪悪感が募っていったのです。
二人は片づけをひと通り終えた後、あなたの様子を確認するために再び廊下へと出て行ったようでした。
私も彼らと同じようにあなたの状態が気になっていました。
騒ぎを一度目にしただけでは、あなたの人格が元に戻ったとはっきり確信することができなかったのです。
少し迷った後、私も直接あなたの様子を確認しに行くことにしました。
依然として茫然とその場にしゃがみ込んでいる花ちゃんに自分も席を外す旨を伝えると、私はそっとドアを開けて外へと踏み出しました。
廊下に出るとすぐに、少し離れた場所にある長椅子に腰をかけるあなたたちのシルエットが目に飛び込んできました。
幸い、廊下は非常灯の明かりが目立つほどに薄暗く、あなたたちはこちらの存在に気づいていない様子でした。
盗み聞きをするつもりはありませんでしたが、なんだか顔を出すのも間違いであるような気がして、結局、私はどうすることもできずその場でじっと固まっていました。
関内君や高島さんの言葉に耳を傾けるあなたは、そこから眺める分には随分と落ち着きを取り戻しているように感じられました。
けれど、それは最初のうちだけでした。
「一ヶ所だけ行きたい場所がある」と。
そう静かに口にしたあなたは、次第に語気を荒げながら関内君に詰め寄っていきます。
やがて、彼の襟元を掴み、顔をにじり寄せるあなたの姿は、私の脳裏に病室での出来ごとをフラッシュバックさせるのに十分でした。
――ですが、私の懸念は杞憂に終わります。
高島さんが勢いよく頬を叩いてあなたを落ち着かせたのです。
おそらく、この時くらいから今のあなたには記憶があるのではないでしょうか?
自分と歳もほとんど変わらない女の子に頬を打たれてあなたは分かったはずです。
どれほど自分が周りを困惑させていたかを。
その後の沈黙は、あなたの反省のように私の目には映りました。
そして……。
冷静さを取り戻したあなたは、どこか確信めいた口調でこう続けます。
そこに4年前の忘れものを探しに行く、って……。
その瞬間、私はすべてを悟りました。
どこへあなたが向かおうとしているのかが分かってしまったのです。
同時に、その〝忘れもの〟が一体なにを指しているのかにも気づいてしまいました。
あなたは夫の死体を掘り起こそうとしていたんですよね?
この時になってようやく、私はあなたの人格が元に戻っていることを確信したのです。




