第41話 この微笑みを曇らせてはならない
ふと哲矢は腕時計に目を落とす。
時刻はすでに16時を回っていた。
「……っと。もうこんな時間か」
思いのほか長く居座ってしまっていたようだ。
哲矢は、畳の上に再びうつ伏せに寝っ転がってスマートフォンを弄り始めたメイに声をかける。
「おい。そろそろお暇するぞ」
「……なに?」
「帰るぞって言ってんだ。川崎さんだってこれ以上居座られたら迷惑だろ? 書道の練習だって途中だろうし」
「いえ、今日の練習はもう終えてますよ。15時から高島さんがお越しになることが分かってましたから」
「いやでも、あまり長く居座るわけにもいかないし。用件もひと通り伝え終わったし……それにほら。俺ら私服だしさ」
「情けないわね。なに一人でビビッてるのよ。生徒手帳ならあるって言ったでしょ?」
「俺は持ってないんだよ!」
もちろん、教師の誰かにここにいることが見つかって後々洋助に迷惑をかけることも心配であったが、それよりも哲矢は花の邪魔をしているのではないかと不安になっていた。
友達という関係があまりにも久しぶり過ぎたため、その距離感を哲矢は完全に忘れてしまっていたのだ。
すると、そんな哲矢の態度を見かねてか、花が優しく声をかけてくる。
「関内君。あまり気を遣わないでください。私たちもうお友達なんですから。遠慮する必要なんてないですよ」
「ああ、そうなんだけどさ。大した用事もないのにこのまま残らせてもらうっていうのもなんだが……」
それでもなお、居心地悪そうにしている哲矢に対して花は一度頷くと、こう提案をしてきた。
「それなら、さっそく今日から事件について考えてみませんか? お二人ともいつまでも学園に通えるってわけじゃないんですよね?」
「そうね。私は14日までって話になってるけど、テツヤは……」
「俺は明日からあと3日間だけ少年調査官として学園に通えるって手筈になってるよ」
「だったら、なおのこと今日から将人君の事件について考えた方がいいですね」
とはいえ、何から始めるべきか。
冤罪を証明するために事件を追うと大見得を切って言ったものの、哲矢は具体的な行動をほとんど何も考えていなかった。
ただ、花の言動にはどこか確信めいたものが感じられた。
哲矢は思わず彼女に訊ねていた。
「ひょっとして川崎さん、将人の冤罪を証明する当てがあったりする?」
「当てというのとは少し違うんですけど……事件に関係することです。ちょうど関内君と高島さんに紹介したいって思ってたんです」
「紹介?」
「はい。お二人ともこの後はなにか用事があったりしますか?」
「特になにもないわ。そうでしょ?」
「ああ……」
確かにメイの言う通り哲矢にはこの後の予定は何もなかった。
洋助も美羽子も今夜は宿舎へは帰らない。
遅くならないようにとは言われているが、まだ門限を気にするような時間でもなかった。
それに……と、哲矢は思う。
宿舎に戻ってもメイと気まずい時間を過ごすだけだ。
なにせ、今日は保護者役の二人が帰って来ないのだから。
(……ったく。どっちか宿舎に残ってくれてもいいのに)
よくよく考えれば、年頃の男女が二人っきりで一晩同じ屋根の下で過ごすというのはなかなか酷い状況であった。
意識するなというのが無理な話である。
これ以上何か考えたところで尚更余計なことを思い浮かべてしまいそうだったので、哲矢はこの場の話にひとまず集中することにした。
「でしたら、一緒に麻唯ちゃんのお見舞いに行きませんか?」
「マイ?」
「……なるほど、そういうことか。事件を起こした少年にも会ったんだ。被害者にも会っておくべきだよな」
「そっか、マイって被害者の一人ね。急に名前を言われたから分からなかったわ。確か彼女だけ今も病院に入院中なのよね?」
「そうです。三年生の卒業式の前日に二年A組の教室から転落して……」
どこか思い詰めたように目を細める花の姿を見て、哲矢は自分の言葉のチョイスを後悔した。
将人の無実を信じる彼女にとって【事件を起こした少年】【被害者】という言葉は不吉な象徴以外の何ものでもない。
今後はこれらの言動に注意を払う必要があった。
「……どうでしょうか?」
花が不安気に訊ねてくる。
メイも自らの失言に気づいたのだろう。
それを挽回するように努めて明るくこう続けた。
「もちろん断る理由はないわ。テツヤもそれでいいわよね?」
「おう。ぜひお見舞いに行こう」
今しがたまで友達としての距離感に悩んでいたのが嘘のように、哲矢は積極的に花の提案を受け入れていた。
「そうと決まればさっそく出発ね。二人とも急いでよ」
メイは畳から飛び上がると、パンプスを素早く履いて部室の外へと駆け出してしまう。
「どんだけ張り切ってんだよ」
「多分、嬉しいんだと思います」
「嬉しいって……あいつがか?」
「はい。私も同じ気持ちだから分かるんです」
「……友達か」
哲矢は無意識のうちにその言葉を口にしていた。
まだ体に馴染んでいなかったが、先ほどよりはそれがどういうものだったかを哲矢は思い出していた。
「なんか麻唯ちゃんと将人君と初めて会った日のことを思い出しちゃいました」
そう小さく口にする花は少しだけ遠い目をする。
けれど、それも一瞬のことであった。
「さ、私たちも行きましょう! 高島さんに置いて行かれちゃいますよっ」
嬉しそうに笑って花が立ち上がる。
その笑顔を見て、哲矢はどこかホッとしていた。
これからは彼女のこの微笑みを曇らせてはならない。
哲矢はそう心に決めると、花に続いて部室を後にするのだった。




