第405話 ラストレター-14
また、一見幸運に見えたあなたの転入劇でしたが、そこにもいくつかの試練が待ち受けていたことを私はこの時まだ知りませんでした。
今のあなたがその当時のことを覚えているかは分かりませんが、きっと様々な苦労があったことだろうと思います。
そんな大変な状況であることも知らずに私は勝手にあなたが宝野学園へ戻ってきたことを喜んでいたのです。
私は元々夫が暮らしていた桜ヶ丘ニュータウンへ嫁いできた身なので、実際にそれを体験したわけではありません。
この街の閉鎖的な環境にも、ほとんど気にすることなく生活を送ってきたのです。
ですが、まったく新しくこの地へ入ってくる人間、もしくはこの地を離れる人間にとっては、状況は異なってきます。
ましてや、一度このニュータウンを離れ、再び足を踏み入れる者にとっては、日々とても大きな勇気が必要であるということに、この時の私はまだ気づいていませんでした。
強固な同郷意識が支配するこの街で、去る者は容赦のない批判を浴びることとなります。
ほとんど耳を貸さないようにしておりましたが、私も何度か吾平さんの悪口を聞くことがありました。
それは異常と言ってもいいくらいのこの土地に残る悪しき風習です。
すぐにでも絶やさなければならないものだって、私は考えております。
その最たる象徴が……宝野学園だったのです。
大人たちは思春期の真っただ中にいる生徒らの感情を意図的にコントロールしています。
この街に残る者は正しく、去る者は間違っているといった具合に。
もちろん、私はそのことに気づいておりましたが、麻唯に関係がないのをいいことに見て見ぬふりを続けてました。
けれど、そんな態度は間違ったものであったと、のちに私は気づくことになります。
しばらくして麻唯からあなたの話を聞きました。
クラスメイトの子たちから影で〝裏切者〟って呼ばれていると。
そのことで麻唯は学園に対して大きく失望している様子でした。
自分が生徒会長であるため、なおさらそう強く感じたのかもしれません。
けれど、幸いなことに全員が全員そうというわけではないようでした。
あなたの味方になってくれる子も確かに存在したのです。
その子の名前は、川崎花ちゃん。
今のあなたにとっては彼女はまだよく分からない存在かもしれませんが、本当にあなたのことを親身に思ってくれている子です。
状況はあなたとは少し異なりますが、花ちゃんもまた外からこの街へと引っ越してきた経緯がありました。
だからこそ、よりあなたの立場に共感することができたのかもしれません。
麻唯や花ちゃんと行動を共にするようになって、あなたへの中傷は次第に減っていったようでした。
そこは生徒会長の出番とばかりにあなたについての悪い噂を耳にすると、麻唯はその出所に対して徹底的に注意したそうです。
花ちゃんも麻唯に倣って周りに注意を促し続けてくれたみたいでした。
二人の努力の甲斐もあってか、やがて秋も深まりを見せる頃には、あなたへの中傷はほとんどなくなったようでした。
それからは、あなたは麻唯と花ちゃんと一緒に幸せそうに学園生活を送るようになっておりました。
最初、距離があった私との関係も顔を合わせるうちにあなたは心を開くようになりましたね。
一緒にクリスマスパーティーをしたり、正月には初詣に行ったりもしました。
ですが――。
そんな束の間の平和もあっさりと打ち砕かれてしまうことになります。
春の訪れを微かに感じ始めた今年の閏日。
夫を殺してからちょうど4年後のこと。
私はその報せを会社の電話で耳にしました。
それは、学園の主幹教諭である社家先生からのものでした。
時刻は夕方だったと思います。
退勤前に仕事を一気に片づけようとしていた私は、会社の同僚から外線が入っていると声をかけられたのです。
その言葉を聞いた時、私は嫌な予感がしたことをはっきりと覚えております。
電話口の社家先生は声のトーンを抑えて慎重にこう口にしました。
おたくの娘さんが教室の窓から転落して意識不明の状態にある、と……。
ただ転落したわけではなく、あなたに襲われてそうなったのだと先生は続けました。
しかも、その行為をあなたが認めているというのです。
その話を聞いた瞬間、私は頭が真っ白になり、動揺のあまり受話器をその場に落としていました。
真っ先に沸き起こってきたのは「あり得ない」という感情でした。
だって、あれほどまでに麻唯のことを大切に考えていたあなたがそんなことをするはずがないって思ったのです。
たとえ人格が変わっていたのだとしても、あなたの麻唯への思いが変わるはずがありません。
あなたの根底には麻唯への思いやりがあるって、私は分かっていたから。
なにかの間違いに違いない。
気がつくと私は会社に断りを入れることも忘れ、そのまま麻唯が搬送されたという瓜生病院まで駆けつけていました。
病室へ足を踏み入れるなり、私は激しいデジャヴを感じました。
数年前、麻唯を匿うために入院させていた個室とその風景がなにもかも一緒なのです。
もちろん、病院側が意図して同じ部屋を選んだわけではないということは分かっていました。
偶然なのです。
だからこそ、何か因縁めいたものを感じずにはいられませんでした。
半日ぶりに再会した麻唯は、真っ白なベッドの上で横になっていました。
目を瞑って眠るその姿は、普段この子が眠る時と変わらないように見えました。
けれど、それから数日経っても、麻唯が目を覚ますことはありませんでした。
規則正しい寝息を立てて眠り続けているのです。
担当の女医曰く、落下時に花壇がクッションの代わりとなって幸いにも大けがを免れることができたということでした。
目立った外傷もなく目を覚まさないのが不思議なくらいだと、彼女は口にしました。
女医とは以前に麻唯を入院させてもらった時からの付き合いです。
その彼女がそう言ったのです。
嘘を吐くはずがありませんでした。
私はいつか麻唯は目を覚ますという思いで再び瓜生病院へと足を運ぶ日々を始めることになります。
同じ病院の同じ病室へと通うわけですが、当時と明らかに異なったのは、そこへ向かうまでの心持ちでした。
いつ目覚めるかも分からない娘の元へと足繁く通う毎日は、とても気分の重たいものでした。
その頃から私は会社を頻繁に休むようになり、結局はせっかく吾平さんから紹介してもらった仕事も辞めてしまいました。
ただ、2年半ほど集中して高給取りの仕事で働いていたこともあり、私は比較的余裕のある貯えを所持していました。
少なくとも数年間は、以前のようにお金のことで心配することはありません。
それよりも麻唯がいつ眠りから目を覚ますのかが気になって、気が気じゃありませんでした。
このまま一生目を覚まさないのではないか。
そんな根拠のない不安に押し潰されそうになり、しばらくの間は私は眠れない日々を過ごしました。
あなたにとってもそうだと思いますが、麻唯にとってもようやく幸せな人生を取り戻せたという矢先の出来ごとでした。
正直、こんなのはあんまりです。
警察の調べでは、あなたが麻唯を教室の窓から突き落としたということになっています。
それも、クラスメイトの子たち数名に襲いかかったという余罪付きで。
いくら周りからそうだと言われても、私はその話を信じることができませんでした。
あなたたちの関係を誰よりも深く知っているからこそ、簡単には受け入れることができなかったのです。
人格が異なっているのならそれもあり得るのではないか、と無理やり自身を納得させようと試みもしましたが、たとえ以前のあなたと人格が違っていたとしても、あれだけ麻唯や花ちゃんと仲良さそうに過ごしていたあなたにそんなことができたのだろうか、という疑問にすぐに打ち消されることとなります。
私はそうやって頑なにその事実を一切認めませんでした。
ですが、あなたがいつまでも容疑を否認しない状況が続くと、気持ちは徐々に揺らぎ始めていきました。
もしかしたら本当にやったのかもしれない、って。
ごめんなさい。
そんな風に考えてしまうこともありました。
当然、すべて納得していたわけではないですし、なぜあなたが容疑を認めていたのかは今でもよく分かっていません。
でも、吾平さんを亡くして心の拠りどころを失ったあなたが、突然そうした行動に走ることはあり得ない話ではないのかもしれない、と次第に考えるようになっていました。
たとえ、その対象が血の繋がった妹であったとしても……。




