第403話 ラストレター-12
大貴君の変化に理解を示す私とは対照的に、麻唯は状況を飲み込むのに時間がかかったようです。
麻唯はあなたがいなくなってからは、なにかと大貴君を頼る部分が多かったので、その急激な彼の態度の変化にとても困惑している様子でした。
ついに自分の傍から親友と呼べる友達がいなくなってしまったわけですから、そのショックは計り知れなかったことと思います。
けれど、そんな麻唯の戸惑いは、生徒会長になるという目標によって塗り替えられていくことになります。
自分が生徒会長になれば、離れていった大貴君とも正面から向き合うことができると考えたのかもしれません。
麻唯は、元々生徒会長になるようなタイプの子ではありませんでしたが、学園に馴染んで徐々に生活を送っていくうちに、周りから自然と評価されていったようでした。
この子はそれを大貴君のお陰であると考えていたみたいです。
だから、今度は自分が彼を助けたい、と。
道を踏み外してしまった大貴君を見てそんな風に思っていたんだと思います。
それが難しい願望であると分かっていながら。
一方の私はというと、夫がいなくなってからは収入を得ることで頭がいっぱいでした。
あんな夫でしたが、私と麻唯の二人を養っていけるほどの給料は稼いでおりました。
最初のうちは夫の預金口座からお金を引き出して私たちの生活費や入院費に充てていましたが、それも底が見え始めると、私は今後どうするかについて真剣に考えるようになっていきました。
複数のパートを掛け持ちしているだけでは麻唯を養っていけないことは明白でした。
そんな中で二度だけ。
私は吾平さんと連絡を取ってしまいました。
もう迷惑をかけたくないという思いでしたので、あなたたちが福岡へ引っ越しをしてからは極力関わり合わないようにと私は心に決めておりました。
ですが、その時はどうしても吾平さんの声が聞きたくて堪らなくなり、私は自分の欲求を抑えることができなかったのです。
久しぶりの電話にもかかわらず、吾平さんは以前と変わらぬ優しい態度で私に接してくれました。
これまでの会えなかった時間を埋めるように、私たちはお互いの近況を報告し合い、そこで私はあなたのことについても耳にしました。
新しい環境に馴染もうとなんとか上手くやっているという吾平さんの言葉を聞いて、ホッと胸を撫で下ろしたのを覚えております。
夫との命を賭けたやり取りがあなたの心に深い傷を残したのではないかと心配していたものですから。
そうして会話をしていくうちに、私は自分の中にある思いが沸き起こってくるのが分かりました。
「すぐにでも二人にはニュータウンへ戻って来てほしい」
いけないと思いつつも、私はそんな考えを捨てることができなかったのです。
私は夫がいなくなったことも告げずにそのまま電話を切るつもりでしたが、吾平さんは私の声に少し違和感があることに気づいたみたいでした。
なにか悩みがあるなら相談してほしいと、彼は真っ直ぐにそう言ってきたのです。
まるで、心の奥底を覗かれているような気分でした。
吾平さんには私がなにで悩んでいるのかが分かったのです。
それ以上、私は感情を抑えることができませんでした。
思わずはっきりと口にしてしまったのです。
仕事やお金のことで困っている、と……。
夫のことは一切口にしませんでしたが、吾平さんはなにか勘づいている様子でした。
もちろん、彼が本当のところでなにを考えていたかは分かりません。
ですが、こうひと言。
「知人に仕事が紹介できるか頼んでみる」と、そう約束してくれたのです。
後日、私宛てに都心の外資系製紙メーカーの担当者から連絡がありました。
マーケティングの通訳社員として採用したいと言うのです。
最初に書いた通り、私はアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフでしたので、幼い頃から日常的に英語を使用しておりました。
それを知っていて、吾平さんは私に合った仕事を紹介してくれたのです。
40歳を越えていた私にとってその申し出は願ってもないチャンスでした。
お礼を伝えるため、私はもう一度吾平さんに電話をしました。
そこでつい言ってしまったのです。
直接会ってなにかご馳走できないかって。
けれど――。
その提案はきっぱりと断られてしまいました。
きっと、吾平さんは夫が私たちの傍からいなくなったことに薄々気づいていたはずです。
それでもその提案を受け入れなかったのは、おそらく私のことを考えてのことなのだと思います。
このまま私が吾平さんに依存を続けていてはダメになってしまうと、彼は分かっていたのでしょう。
吾平さんと私の関係は離婚により完全に終わっていました。
それが私の一方的なわがままによって再び縁ができて、この日までだらだらと続けてしまっていたのです。
私は……。
私たちがすでに別々の道を歩き始めていることにまったく気づいていませんでした。
吾平さんに断られて、初めてそれが分かったのです。
もう後ろを振り返るのは止めにしようと、そう言われているようで……。
気がついたら、私は、今後二度と連絡をしないと吾平さんに言ってました。
そして、半ばふて腐れ気味に電話を切ったんです。
それが最後の会話になるってことも知らぬまま――。
それからの私は、なるべくあなたや吾平さんのことを考えないようにするため、必死で仕事に集中して働きました。
終電で帰宅し、深夜帯まで自宅を空けることが多くなりましたが、麻唯はそれでも私を応援してくれました。
やがて、そんな生活が1年も経つ頃には仕事も安定し、徐々に生活のリズムにも慣れてきて、私はようやく麻唯を養っていけるだけの経済力を身につけることができました。
麻唯も希望通り生徒会長に当選し、私たちは今までで一番心にゆとりのある日々を過ごしていました。
2023年初夏のことです。
ですが――。
私たちがそんな幸せな生活を手に入れた影で最悪の出来ごとが起こってしまいました。
その報せを受けたのは職場の上司からでした。
「生田さんが亡くなったらしい」って……。
そう言葉を聞いた瞬間、私は天地がひっくり返ったように、あらゆる物ごとが私の中から抜け落ちていく感覚を抱きました。
これまでの人生で味わったことのない本物の恐怖が目の前に横たわっていたのです。
続く上司の話に私は言葉を失いました。
吾平さんはもう数年以上も前から悪性の腫瘍を患っていたらしく、それが原因で亡くなってしまったのだ、と。
そんな事実、私は吾平さんから今まで一度も聞いたことがありませんでした。
あの時、なにか予感のようなものがあって、わざと私を遠ざけたんじゃないかって。
そう考えてしまうと、私は涙を堪えることができませんでした。
自宅へ帰ってからは部屋の中に引き籠り、一日中わんわんと大声で泣き続けました。
本当に涙が枯れ果てるまで、私は床に這いつくばって嗚咽を繰り返したのです。
その時のことは……正直、あまり思い出したくありません。
吾平さんは、この世で唯一私を一人の女性として愛してくれた人でした。
ようやくそのことが私は分かったのです。
でも、気づくのが遅過ぎました。
どこを探したとしても、吾平さんはもうこの世界にいない。
彼が私の目の前に現れることは永遠に叶わない。
その渾然たる事実が認められなくて、私はしばらくの間、現実を受け入れることができずにいました。
そういう状態でしたので、当然、麻唯も私の身になにかとんでもないことが起こったと悟っていたに違いありませんでしたが、この子はなにかを訊いてくることは一切ありませんでした。
きっと、それを実際に口にすることで私がさらに辛い思いをするということが分かっていたのでしょう。
麻唯はそうした気遣いのできる子なのです。
一方で私はというと、自分のことだけで一杯一杯となっておりました。
本当に気にかけなければならない相手は他にいたというのに……。
やはり、私は母親失格なのです。
あなたのことを忘れ、まるで悲劇のヒロインのように悲しみの淵で溺れ続けていたのでした。




