第401話 ラストレター-10
暫しの間、うとうととしていたかもしれません。
日夜、睡眠不足のままパートに行っていた影響が出たと言っても過言ではないでしょう。
夢とも現ともつかない状態で私は朦朧と意識を彷徨わせていました。
そんな中、鳥たちの騒めきに混じって、微かに呻きのような声が聞こえてくることに私は気づきます。
それはどこか、野良猫の鳴き声のようにも聞こえて……。
その瞬間、ハッと私は意識を覚醒させます。
今度こそ私はそれを聞き間違えませんでした。
夫がまだ生きている!
そんな突拍子もない考えはすぐに確信へと変わります。
大きく開いた穴の方から二度三度と、同じような呻き声が聞こえてきたのです。
そして、その声が助けを求めているということが分かると、私はすぐさま穴の中へと降りていきました。
身の毛もよだつ恐怖に体は硬直してなかなか言うことを聞きませんでしたが、私は必死で理性を保つと、まだ痛みの残る指先を使って懸命に土を掘り進めていきました。
こんなことは絶対にあり得ないという思いと、けれどもこれが現実なのだという思いが高速に交差して、この時の私の思考は滅茶苦茶となっておりました。
ですが、土を掘り進めていくうちにその声がはっきりと聞こえてくるようになると、そんな私の思考はある一本の線をスッと引くように落ち着きを取り戻していきました。
もはや、疑いようはありませんでした。
夫は生きていたのです。
あなたにとっては、とても信じられないことでしょう。
けれど……これは事実なのです。
団地前の歩道であなたに襲われ、豊ヶ丘の森まで走って逃れ、そこで地中深くに埋められたにもかかわらず、夫は生きていたのでした。
元々、大柄な体格を生かして学生時代はラグビーの選手をしていたようです。
その頃に培った財産を夫は必死で活かしたのでしょう。
いくら中学一年生の男子の腕力がそこまで成熟し切っていないからといっても、全力で振り回されたシャベルを思いっきり体に受ければ、普通はどんな大人の男でも生き長らえることは難しいことでしょう。
でも、夫にはそれができてしまったのです。
それほどその生命力はしぶとく強烈なもののようでした。
私や麻唯がいくら頑張ったところで逃げられる相手ではなかったのです。
やがて、指先がなにか固い金具のようなものに触れました。
自然界のものではないことは、感触ですぐに分かりました。
そっと優しくかき出すようにして辺りを掘り進めていくと、ようやく全容が見えてきます。
そこには一人の大人がすっぽりと入ってしまうほどの大きさの木箱が埋められていました。
夫はその中に入れられていたのです。
おそらく、あなたは大貴君と協力して、それをどこかから持ってきたのではないでしょうか?
その用意周到さに私は背筋が凍る思いでした。
きっと何週間もかけてこの計画を練ってきたのだということが分かってしまったからです。
その頃には、私は夫と会話することが可能なくらいまで土を掘り進めていました。
声をかけると、ややあってから夫の弱々しい声が返ってきました。
夫は私がこの場にいることに対してなんの疑念も抱かないくらい精神が衰弱し切っている様子でした。
それからさらに土をかき出し続け、上蓋の部分が完全に顔を出してしまうと、あとは中からそれを自力で破れるようでした。
その瞬間、私は全身血まみれとなった夫とほとんど一日ぶりに再会することとなります。
手を掴んで木箱の中から夫を引っ張り出すと、私たちはその場に倒れ込みました。
夫は苦しそうに何度も咳き込んでいましたが、命に別状はなさそうでした。
しばらく仰向けになっていると、やがて落ち着きを取り戻したのか、夫は真っ赤に染まった顔を醜く歪めながら私にこう口にします。
ガキにやられた、って。
あなたや大貴君にとっては忌まわしき相手だったに違いありませんが、夫にとってあなたたちは顔も名前も知らない赤の他人同然の存在だったのです。
病室であなたの顔を見たにもかかわらず……。
その言葉を聞いた瞬間、私の中でなにかが大きく弾けるのが分かりました。
あなたがどれほどの覚悟を持って立ち向かったのか。
そうしなければならないまでに追い込まれていた理由をこの男はまるでなにも理解していないのだ、と。
一度それに気づいてしまうと、私は腹の奥底で巣づくトグロを巻いたモノの存在が徐々に膨れ上がっていくのが分かりました。
続けて夫は息を深く吐き出すと、その場で大きく手を広げながら、「酒を持ってきてくれ、酒が飲みたい」と、まるで自分の現状をまったく理解していない言葉を繰り広げました。
その目は焦点が定まらず虚ろで、誰が見ても重症な状態にあることは明らかでした。
早く夫を病院へ連れて行かなければという道徳的な感情が沸き起こる一方、私は腹の底で蠢くモノを解放してしまいたいという欲望にも駆られ、とっさに判断することができずにいました。
ですが、唐突にきっかけは訪れました。
夫が催促の罵声をその場に撒き散らしたことによりトラウマが一気に覚醒し、私はその先の未来を一瞬のうちにして見ることになります。
このままこの男を生かしておけば麻唯がどうなるか分からない。
それが分かったからこそ、まだ若干13歳に過ぎないあなたたちは凶行に及んだのだ、と。
これらの意味が分からないほど、私の思考能力は鈍っていませんでした。
そして――。
砂時計の砂がすとんと落ち切ってしまうみたいに、私はある決断をします。
それは、ある種の義務感にも似た感情に従ってのものでした。
……それからのことは。
ごめんなさい。
よく思い出せないのです。
こびりついた泥と染み込んだ汗の匂い。
急き立てるように降り注ぐ光と、騒ぎ始める鳥たちの囀り。
そして、真っ赤に染まった血の色……。
そんな断片的な記憶は私の中に眠っております。
けれど、肝心の夫をどう殺したかまでは思い出せません。
そう。
私は夫を殺したのです。
自らの手によって。
はっきりと覚えていることは二つ。
まず一つは、上蓋が壊れてしまった木箱と新調した木箱を交換するため、自宅と公園を何度か往復したということです。
なぜ、そんなことをしたのかはよく分かりません。
正直、自分でもほとんど無意識のうちに私はそれをやってました。
もしかすると、あなたや大貴君が仮に自首したとしても、まったく別の第三者が絡んでいるのだということを警察へ間接的に明示したかったからかもしれません。
結果的にそれは、あなたへの抑止力の役割を果たすことになります。
それについてはまたこの後詳しく書きたいと思います。
もう一つはっきりと覚えていることは、夫の死体を三浦半島まで車で運び、小型船を借りて外洋に重石をつけて沈めたことです。
私は誰かに見つかることなく、それを最後までやり遂げました。
すべてが終わった後には私の手の平に夫の奥歯が2本。
まるで、醒めない夢の象徴のような形で残されているだけでした。




