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桜色の街で ~ニュータウン漂流記~  作者: サイダーボウイ
二つの手紙編 4月14日(日)
397/421

第397話 ラストレター-6

 あなたと吾平さんの引っ越しが1ヶ月ほど後に迫った1月下旬のこと。

 一番恐れていた事態が唐突に訪れます。


 ついに夫が私たち夫婦の取り決めを破って、麻唯の病室まで足を踏み入れてきたのです。


 当然、あなたはその場にいたため、顛末のすべてを分かっていることと思います。

 ですが、改めて詳細を書かせてください。


 あの時一体なにが起こったのか。

 それをきちんと理解しないことには、この先の未来へ進むことができないと思うのです。


 そう……。

 これは私自身のための行為でもあるのです。



 

 吾平さんがニュータウンから去ることが決まり、一時は怒りが収まったように見えた夫でしたが、その火種が消えることなく燻っているということをその時の私はまだ把握できていませんでした。


 夜勤を含む複数のパートを掛け持ちするようになった私の生活サイクルは、夫のそれと徐々に乖離していくようになります。

 特別意識してそうするようにしていたわけではありませんでしたが、夫にはそれがあからさまな拒絶のように映っていたようです。


 それに、突然仕事を増やすようになったことについても不信感を募らせているようでした。

 私は麻唯の入院費を稼ぐためとそれを口実にしていましたが、それだけが理由ではないことに夫は薄々勘づいていたのかもしれません。

 そんな状況が、燻っていた夫の火種に勢いを与えることになったのです。


 ですが、当時の私は目の前の仕事を一つ一つ消化させていくことに精一杯でしたので、夫がそのような状態にあることに気づけませんでした。

 だから、本来なら唐突でもなんでもない夫の乱入にも、正確に対処することができなかったのです。

 

 あなたと麻唯は、私がしっかり守らなければなりませんでした。

 落ち度はすべて私にあります。

 事態を予測できていなかったわけですから。


 そのことを今でも本当に申し訳なく思っております。



 

 あの日、ドアを思いっきり開けて雪崩れ込んできた夫は、まずスツールに座って読書していた私の顔面を思いっきり拳で殴ると、ベッドで横になっていた麻唯をそこから引き摺り下ろして、大声で怒鳴り散らしました。


 錯乱した夫の出現で部屋の緊張感が一気に高まっていったのを覚えております。

 感情のタガが外れ、理性の歯止めが利かなくなっているのは、誰の目にも明らかでした。


 私は、床に転げ落ちて泣き始めた麻唯に駆け寄ることもできず、隅で固まるようにして肩を震わせるあなたを守ることもできず、ただ突然の出来ごとに圧倒されていました。


 それも当然です。

 夫は大柄な体格をしてましたし、敵わないのは火を見るよりも明らかでした。

 その場にいる誰もなにもできなかったのです。


 なぜ、こんなことをしたのか。

 息を荒げながら興奮気味に絶叫する夫の主張はとても幼稚なものでした。

 ただ単純に、私たちが傍から離れていくことが精神的に耐えられなかったのです。


 今すぐに戻ってこいと、夫は理不尽に喚き散らしました。


 他者を支配することに自らの存在意義を見出している者がゆえの発言です。

 その姿はどこか惨めで、それで私は徐々に冷静さを取り戻すことができました。


 それからの反応は早かったです。

 ナースコールに手をかけると、私は大声で助けを呼びました。


 すぐさま職員の方が駆けつけてくれて、彼らに取り押さえられる形で夫の暴挙は呆気なく失敗に終わりました。

 

 その後、夫は瓜生病院からの出入り禁止を命じられ、結果的に事はいい方向へと転びましたが、ショッキングな場面を目撃したあなたにとっては、それで簡単に納得できる話ではなかったようでした。


 騒ぎがひと段落した後で、あなたは私を廊下に呼び出しましたね。

 訊きたいことがある、って。


 その瞬間、私はあなたがなにを訊こうとしているのかを悟りました。

 ついにこの時がやって来たのだと、不思議と閊えの取れる感覚を抱いたことを覚えております。


 正直、これほど身近にいて事実を隠し通せるはずがないと私は内心で思ってました。

 麻唯や夫のことで頭をいっぱいにさせて、あまりそのことは考えないようにしようと無意識のうちに行動していたのかもしれません。


 けれど、そんなことをしたからといって事実が消えて無くなるわけではありませんでした。

 

 「貴方は俺の母親なんじゃないですか?」


 まだあどけなさの残るあなたの口から放たれたその言葉には妙な鋭さがありました。

 それで私はハッと気づかされたのです。


 私は今人生の岐路に立っているのだ、と。


 それほど重要な場面に遭遇しているのだと状況を俯瞰で眺めることができました。


 だからでしょうか。

 本来ならば見過ごしてしまいそうな箇所にも気づくことができたのです。


 あなたのその言葉には、どこか行き当たりばったりの無鉄砲さが隠れておりました。

 元から訊くつもりだったというよりも、つい口から零れ出てしまったという印象を受けたのです。

 

 おそらく、原因は夫の騒動にあったのでしょう。

 あのような光景を目の当たりにして、あなたは堪らなかったのではないでしょうか。


 事実を確かめなければいけないという使命感にも似た感情が、瞬時にあなたの身に降りてきたとしても不思議ではありませんでした。


 ですが、そう思う一方で、あなたはそのことを以前からずっと口にするか悩んでいたのではないかという気もするのです。


 どこであなたがその事実に気づいたのかは分かりません。

 もちろん、吾平さんが教えたとは思いませんでした。


 彼は誰よりもあなたのことを大切に考えておりました。

 私たちが実は親子の関係にあるという事実を告げた場合、あなたや麻唯を含む私たちの関係は大きく混乱するということが吾平さんは分かっていたのです。


 本当に迷惑をかけてばかりでしたが、そんな私に対して十分過ぎるほどの気遣いをくれたのが彼でした。

 だから、私にひと言も告げることなく、あなたに私たちの関係を話したとはどうしても思えなかったのです。


 行き着く結論は単純でした。

 あなたは独自にその事実に気づいたんです。


 私は必死でそれを隠しているつもりでしたが、勘のいいあなたはどこかで私たちの関係について気づいたのでしょう。


 いつかこのような日が訪れる。

 そのように覚悟していましたし、内心ホッとした部分もあったのですが、いざ面と向かってそう訊ねられると、私はなにも言葉を返すことができませんでした。


 どう答えてもあなたを傷つけてしまいそうで、急に物怖じしてしまったのです。


 また、本当のことを口にした結果、あなたがどのような反応を示すかを考えると怖くて堪りませんでした。

 あなたは決意を持って訊ねてきたというのに、私は逃げることを選択してしまったのです。




 私がなにも答えなかったからでしょう。

 あなたは自分を追い込むように、さらに踏み込んだ話を切り出してきましたね。

 辛い告白をさせてしまったことを本当に申し訳なく感じております。


 自分は多重人格者である、と。


 現状に一筋の光を見出すように、あなたは淡々とそれを口にしました。

 本来なら驚くべき内容のはずです。


 もちろん、私はその時に初めてその事実を知りました。


 ですが、どうしてか。

 私はそれを耳にして驚くよりもまず先に、納得してしまったのです。


 以前から私は、あなたを置き去りにして消えてしまったことに対しての代償が自分にはあって然るべきだと考えておりました。

 だから、現在の人格は本来の自分のものとは異なるという話を聞いた時、こんな書き方は大変失礼なことは承知の上ですが、ある意味では安堵してしまったのです。


 ああ……これでようやく目に見える罪を背負うことができるんだ、って。

 その重さに私は満足さえしたのです。


 本来母親であるべきはずの私が傍にいなかったことで、あなたは幾度となく寂しい思いをしたに違いありません。

 それが大元の原因かは分かりませんが、あなたをそんな風にさせてしまったのは、まず間違いなく私の責任だと感じました。


 いくらお詫びしたところで許されることではないでしょう。

 これは一生背負っていかなければならない私の罪なのです。


 多分、あなたは私を責めたかったのではないでしょうか。


 その告白に際してあなたはどうこう言うことはありませんでしたが、目ははっきりとそう訴えていることに私は気づいておりました。

 その場で私が直接謝罪すれば、いくらかあなたの気持ちも報われたかもしれません。


 けれど……。


 私は自らの罪深さに酔いしれ、なにも言葉を返すことができませんでした。

 その時は、自虐的に自らを省みることで、あたかも罪を償っているように錯覚していたのです。


 今にして思えば、そんな私の独善的な態度があなたの背中を押すきっかけになったんじゃないかって……そんな気がするのです。

 本当に後悔しております。


 どこか目の据わった表情で廊下を後にするあなたの背中を私は今でもよく思い出します。

 

 あれは――。


 私が招いた結果でもあったのです。

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