第390話 はぐらかされて
「――大貴は、藤野が教室の窓から転落してしまったことで、過去の殺人やお前と藤野の関係が公になるのを懸念してたんだ。そのカモフラージュのために偽りの事件をでっち上げて、お前を容疑者に仕立て上げた」
「もちろん、あいつは初めからお前に罪を被せようなんて考えてなかったんだ。いずれ自分が自首することを想定してそんな行動に出たんだよ。今、大貴が鑑別局の中に入れられてるのは、偽りの事件をでっち上げたって警察に自白したからなんだよ。お前が一時的に釈放されたのもそのためなんだ。全部その手紙の中に書かれてる」
「…………」
将人は泥だらけの手で便箋を持ち、視線を落としたまま何も答えない。
今度のそれは作為的な沈黙ではなかった。
純粋に言葉の一つ一つを噛み締めているのが哲矢に伝わってくる。
けれど、まだ現実を受け止め切れていないのか。
その手紙を読むまでには至らないようであった。
(少し時間が必要か……)
ふと、そよぐカーテンが哲矢の視界に入る。
窓からは心地いい初夏を感じさせる緩やかな風が入り込んでいた。
遠慮がちに差し込んでいた陽光は先ほどよりもその強さを増し、今日が晴れやかな一日となることを予感させている。
そっと哲矢が将人へ視線を戻すと、いつの間にか彼はベッドに背を向けてこちらに向き直っていた。
その瞳からは、これまで見て取れなかった僅かな決意の色が滲んでいた。
現実と向き合う覚悟ができたということなのだろう、と哲矢は理解する。
いよいよ決着の時が近づいているようであった。
哲矢は大きく息を吸い込むと、一歩足を踏み込んで彼の領域へと入っていく。
「真夜中に大貴の名前を一切口に出さなかったのは、あいつを庇おうとしてたからなんだろ? お前は一人で警察に自首するつもりだったんだ。俺たちに協力を要請してきたのは、少しでもそれを早く実行するためだった」
「…………」
「正直さ。お前たちの信頼関係が羨ましいよ。互いに相手のことを優先して考えることができるんだからさ。俺は……そこまでの関係にはなれなかったから。いや、違うか。そこまで踏み込む勇気を俺は持ってなかったんだ。だから、これまで色々と大切なものを見過ごしてきてしまった」
目を閉じると、坊主頭のかつての親友の顔が甦る。
きっと、将人は何のことを言っているのか分からないことだろう、と哲矢は思う。
けれど、哲矢にとって今自分が吐き出した言葉はとても重要な意味を持つものであった。
「もう一度訊かせてくれ」
哲矢はさらに一歩前へ足を踏み出すと、手にしたピンク色のショルダーバッグを差し出しながら口にする。
「なぜ、このバッグがあの木箱の中に入れられてたんだ?」
「…………」
「これは藤野に渡すつもりだった物なんだろ?」
そう哲矢が言葉にした瞬間、将人の眉が一瞬ピクッと引き攣る。
表情を曇らせて俯くと、なおも頑なに黙り込んでしまうのであった。
その仕草を肯定の合図と捉えた哲矢は、わざと鎌をかけるように好戦的な言葉を続ける。
「4年前、これを一緒に木箱の中に入れたのはお前なんじゃないのか? なんでだ? なぜあんなところにこんなものを入れておく必要があった? 直接本人へ渡せばよかったじゃないか」
自分が見当違いの言葉を投げている自覚はあったが、こんな詰め寄り方をする以外、将人の本心を引き出す方法はないと哲矢は考えていた。
このように発破をかければ、何かしら口を開くと思ったのである。
そして、哲矢のその読みは予想通り的中する。
沈黙に耐え切れなくなったのか、彼はようやく反論の声を上げるのだった。
「違う……」
将人はどこか芯のこもった声で短くそう口にする。
その簡潔な物言いに、一瞬、バッグが麻唯へ宛てた物ではないと否定されているのかと思う哲矢であったが、彼はそれを指して〝違う〟と言っているわけではなかった。
もっと話の根底へ向けて彼はそう口にしたのだ。
哲矢の目を真っ直ぐに見据えると、将人はもう一度同じ内容の言葉を繰り返す。
「違うんだ。これは……」
口調としては弱々しくあったが、哲矢の目を見る視線には他者を圧倒する力が込められていた。
思わず後退りしそうになるのを堪えて、哲矢は慎重に返事をする。
核心へと至る期待を込めながら。
「違う? なにがどう違うって言うんだ?」
「……それをあの木箱の中に置いたのは俺じゃない。というよりも、話の論点はそこじゃない。あり得ないんだよ、それは……。あそこにあってはいけない物なんだ」
将人の主張は昨夜これを見つけた時から一貫して変わっていない。
だが、だからこそ、その物言いに哲矢は違和感を抱かずにはいられなかった。
何かに配慮するように、用意された台詞を繰り返しているように感じられてしまうのだ。
どこか、はぐらかされ続けている。
そんな印象が拭えない。
哲矢の苛立ちは募っていく一方であった。
(このままじゃ埒が明かない……)
将人の人格もいつ交代するか分からない状況なのだ。
それに……と、哲矢は思う。
これまであまり意識しないようにしてきたが、哲矢にとって今日は正真正銘この街に居られる最後の一日であった。
お互いに猶予は残されていない。
悠長に牽制し合っている余裕などなかった。
「将人……。もう正直に教えてくれないか? そんな抽象的な表現じゃ、何が言いたいのか全然分からないんだ」
「…………」
「あり得ないってどういう意味なんだ? どうしてそう言い切ることができる?」
「…………」
そう哲矢が本音でぶつかっても、彼はまだ本当のことを語るつもりはないようであった。
目を逸らして、再び黙り込んでしまう。
その煮え切らない態度に、思わず哲矢は感情的となって彼へ詰め寄ってしまう。
「なぁ、なんで黙ってんだよ。こっちはお前の言動に昨日から振り回されっぱなしなんだ! いい加減答えろよ!」
ドンッ!!
その瞬間、哲矢は病室の壁を思いっきり拳で叩いていた。
音は大きく反響し、廊下まで響いていく。
もしかすると、職員の誰かが駆けつけてやって来るかもしれない。
しかし、それでも構わないと哲矢は思った。
この場で将人と決着を着けない限り、4年前の殺人事件はすべて終わったとは言えない。
哲矢はその役割を自負していた。
自分がこの街へやって来た理由は、少年調査官をするためではなく、この瞬間のためだったのだということが分かってしまったのである。
「…………」
そのある種の使命感にも似た強い意思が将人にもようやく伝わったのか。
彼は、拳で壁を叩く哲矢の姿を見て力なく首を横に振ると、観念したように両手を挙げるジェスチャーを見せる。
「……分かったよ。どういうことか、ちゃんと答える。でも、その前に一つだけ言わせてくれ。俺だってまだ混乱してるんだ」
「……っ……」
「ひとまず、落ち着いてくれよ。一旦そこに座って」
「……ああ」
将人に促される形で差し出された泥だらけのスツールに哲矢は一度腰をかける。
隣りに立つ彼は、麻唯がしっかり眠りについているのを確認すると、哲矢が抱いたピンク色のショルダーバッグに目を向けながら静かにこう話を切り出すのだった。




