第388話 壮大な勘違い
「……そう考えると、やっぱり俺は現れるべきじゃなかったんだって思う。その時の俺はまだ、4年も経てば環境ががらりと変わってしまうってことを全然理解してなかった。主導権は俺がずっと握ってるって、無意識のうちにそう思い込んでたのかもしれない。自分は殺人の事実を知ってるんだって、そんな優越感にも似た感情を持ってたことも否定できない」
「アイツにとって、キミや川崎さんと過ごした日々が輝いてたように、俺にとってもこの街で過ごした7年近くは特別だったんだ。だから……。どうしてももう一度、俺はキミと大貴の前に姿を見せたかった。麻唯……本当にごめん。キミをこんな風にしてしまったのは、俺の身勝手なわがままのせいなんだ」
「あの日の告白は……区切りのつもりだった。正面から向かい合ってすべて打ち明けることが正しさだって、俺は勘違いしてたんだ。まさか、あんなことになるなんて……俺はっ……」
将人はそこまで口にすると、再び深いため息を漏らす。
おそらく、入室してから同じ話を繰り返しては声を詰まらせているのだろう、と哲矢は思った。
それほど今の将人は強い後悔の念に苛まれているのだ。
今年の2月29日、閏日の出来ごとがどれほど彼に大きな影響を与えてきたかを哲矢は改めて思い知る。
そして――。
(なるほどな……)
哲矢は徐々に状況を理解し始める。
結果論でしかなかったが、2番目の人格の彼が表に現れなければあのような悲劇は起こらず、平和な日常は続いていたのだ。
大貴が偽りの事件をでっち上げて警察に捕まることもなかったはずである。
だが、しかし……。
一体誰がそれを非難できるだろうか。
手紙の中で大貴は〝人格がこのまま戻らないようなら、それはそれで皆が幸せなんじゃないか〟〝あえて残酷な事実を突きつける必要はない〟と書いていたが、今の哲矢はそう考えていなかった。
2番目の将人が表に出てきて真実を口にしない限り、本当の意味で麻唯との関係が決着することはあり得ない、と哲矢は思う。
(それに……)
麻唯を絶望の淵から救うために立ち上がったのは、紛れもなく2番目の人格の将人であった。
彼がいたからこそ、本来の人格の将人は彼女と幸せな関係を築けたわけである。
その事実が消えることはない。
将人の懺悔は麻唯の耳に届いていないかもしれないが、いつの日かその言葉が伝わることを哲矢は強く願うのだった。
◇
それからしばらくの間、将人は同じような独り言を繰り返した後、ようやく気持ちの整理がついたのか、スツールからそっと立ち上がると麻唯の手をゆっくり握り締める。
その背中は、まるで自分に残された時間があと僅かであることを悟っているかのように見えて、哲矢の胸は締めつけられるようにキュッと苦しくなる。
だからだろうか。
次に将人の口からこんな言葉が零れ出ても哲矢は特に驚きは感じなかった。
これがここから離れることができない理由であると言わんばかりに、神妙な声色で彼は言葉を絞り出す。
「――麻唯。大貴が先に自首しちまったんだ。大貴とは一緒に警察へ行くっていう約束だった。けど、俺はキミを教室の窓から落としてしまったショックで新しい人格を作り出してしまって……。その間、大貴がどういう気持ちで過ごしてきたかは俺には分からない。彼は影ですべて背負い込むようなところがあったから、それで俺の代わりに自首したのかもしれない。なにもかも全部俺のせいなんだ」
「昨日の夜にさ。ある場所で大貴からの手紙を見つけてその事実を知ったんだ。『おそらく俺は今お前に会えない状態にあると思う』『鑑別局に入れられてるか、ひょっとしたらもう少年院か少年刑務所に入ってるかもしれない』って、そこには書かれてたよ」
「4年前に殺したキミの父親の……〝証拠〟を持って、俺たちは二人で自首するつもりだったんだ。だから、その手紙を読んで信じられない思いでいっぱいだった。俺はすぐに〝証拠〟を隠しておいた場所まで駆け出したよ。自分の目で事実を確認するまで信じたくなかったんだ。結果的に、それは消えてなくなってた。多分、大貴が一人で自首するために持ち出したんだって思う」
「…………」
そういうことだったのか、と哲矢は将人の話に耳を傾けながら思った。
だから、あの時、彼は錯乱したように急いでパン屋を飛び出して行ったのだ。
(でも……将人。お前のその読みは間違ってるんだ)
将人はそれが確定事項であるかの如く、断定調で麻唯に語り続けた。
彼は信じているのだ。
大貴が裕行の死体を持ち出して先に自首してしまった、と。
けれど、それは誤った認識であることを哲矢は知っている。
大貴は裕行殺害の罪で警察に捕まったわけではない。
むしろ、そんなことをする必要はないと考えていたのだ。
ではなぜ、このような間違った解釈を将人がしているのか。
(……答えは簡単だ)
やはり、彼は手紙を最後まで読んでいなかったのである。
おそらく、書き出しの部分だけ読んで勘違いしてしまったのだろう、と哲矢は思う。
大貴が先に自首してしまったと誤った解釈をした彼は、一刻も早くその事実を確認するために急いで豊ヶ丘の森まで向かった、というのが昨夜の真相だったのだ。
切迫した状況下であのような書き出しを読めば、将人がそのように勘違いしてしまうのも無理はないのかもしれない。
だが、それとは対照的に依然として分からないことがあった。
木箱の中身を見た時の将人の反応だ。
ピンク色のショルダーバッグが箱の中にぽつんと置かれているのを見て、彼は紙の束を発見した時とは比べものにならないくらいの驚きの表情を浮かべていた。
まさに狼狽と呼ぶに相応しい反応を示していた。
「…………」
まだ将人の内には明かされていない秘密がある。
そう哲矢は思った。




