第360話 朝、そのタクシーを見かけて
「お前……134番じゃないか」
留置管理官は一瞬哲矢の泥だらけの恰好に驚く素振りを見せるが、すぐ若い警察官の男に声をかける。
「なにがあった?」
「ああ、小八幡さん。丁度、訊きに行こうって思ってたんスよ。この子が……」
「荷物のことか? 家裁の女調査官から聞いてるよ」
「家裁?」
「おい、ちょっと」
白髪交じりの留置管理官は手招きをして男を呼びつけると、二人して廊下の奥へと消えて行ってしまう。
結果的に助かったということなのだろうか。
それで哲矢は解放されることとなった。
◇
しばらくその場で待機していると、見覚えのあるスポーツバッグを片手に握り締めた留置管理官が哲矢の元へ戻ってくる。
「その恰好、水たまりにでも転んだのか?」
「……い、いや、これは……」
用意しておいた台詞を口にしようとする哲矢であったが、なぜか彼を前にするとその言葉は閊えて出てこない。
留置管理官はそんな哲矢の姿を見て口元を微かに吊り上げると、「ほら、もうこんなとこに来るんじゃないぞ」と言って、玄関口まで送り出してくれるのだった。
そのあまりの呆気なさに、哲矢は思わず拍子抜けしてしまう。
どういうわけか分からなかったが、彼は深く詮索してこなかった。
もしかすると、美羽子が何か言ってくれていたのかもしれない、と哲矢はなんとなくそんなことを思うのだった。
「そ、その……。数日間、色々とお世話になりました」
留置管理官に礼を述べて深々とお辞儀をすると、哲矢はスポーツバッグを持って足早に小階段を駆け降りる。
とりあえず、これで着替えを手にすることができたわけだ。
(さ、ぱっぱと着替えちまおう)
近くに着替えられるスペースがあったかなと考えを巡らせながら、哲矢が署内の駐車場を横断していると、入れ替わるようにして1台のタクシーが勢いよく入ってくる。
(……っ、なんだ……?)
ふと気になり、その方へ目を向ける。
タクシーが警察署へ乗りつけること自体は別に不自然なことではなかったが、哲矢はこの時間帯が気になった。
こんな朝早くに警察署へ用事がある人物とは一体どんな人間なのか。
「…………」
なぜか胸騒ぎのようなものを覚え、タクシーから降車する者の姿を確認しようとする哲矢であったが、寸前のところでそれは止めることにした。
もし仮に何か事件を起こして警察署へ出頭したのだとして、そんな場面をじっと覗かれたら、きっと気分はよくないに違いないと思ったのだ。
(人のこと気にしている場合じゃないしな)
哲矢はそのまま桜ヶ丘中央警察署の敷地から出ると、駆け足で近場の公園を目指す。
公衆トイレを見つけると、哲矢は素早く私服に着替えた。
靴は替えがないためそのままであったが、タオルで髪や顔を拭いて整えると、一応は外を出歩ける恰好となった。
ピンク色のショルダーバッグをスポーツバッグの中へと仕舞い込む際、哲矢は内ポケットに何やら白い封筒が入れられていることに気づく。
『なにか困った時に使いなさい 父と母より』
封筒には千切られた紙切れと共に真新しい一万円札が入れられていた。
「ははっ……」
両親の何気ない優しさに思わず熱いものが込み上げてくる。
だが、ここで涙を見せている暇は哲矢にはなかった。
ポケットの中に封筒を仕舞い込むと、哲矢は今一度腕時計を確認する。
「7時38分か」
一体、いつまで将人があの現場に残っていたのかは分からなかったが、掘った穴をすべて埋めていたところから察するに、彼が現場を去った時間と自分が目を覚ました時間にそれほど差はない、と哲矢は考える。
それに彼が向かう先は大よその見当がついていた。
真夜中の発言がすべて真実ならば、向かう場所は限られている。
(だけど、その前に……)
哲矢には一つ、確かめておきたいことがあった。




