第359話 桜ヶ丘中央警察署
豊ヶ丘の森を出ると、哲矢は歩道橋は渡らず、近くの階段を降りて一度幹線道路へと出る。
ここが第五区画の端だということはなんとなく理解しているつもりの哲矢であったが、正確な位置は把握できていない。
だから、幹線道路を辿っていけば、いずれ桜ヶ丘プラザ駅の近くに出ると思ったのだ。
桜ヶ丘中央警察署はその周辺にある。
青看板の案内標識を確認して、哲矢はひとまず桜ヶ丘プラザ駅を目指す形で歩き始めた。
◇
まだ比較的早い時間のためか。
車道を走る車の数は少なく、歩道にはほとんど人の姿は見受けられなかった。
それから幹線道路を右折して都道をしばらく進んでいくと、ようやく見覚えのある景色が哲矢の目に飛び込んでくる。
右手に宝野学園のキャンパスを見上げながら、そのまま直進すること10分。
駅前の喧騒に差しかかろうというところで、左手に薄橙色の大きな建造物が見えてくる。
桜ヶ丘中央警察署だ。
この辺りまで来ると、さすがに人や車の姿も多くなり、哲矢は訝しげな視線に晒される回数が多くなっていた。
哲矢は駆け足で桜ヶ丘中央警察署の敷地を跨ぐと、入口へと通じる小階段を登り、息を整えてから自動ドアを潜って署内へと足を踏み入れる。
「…………」
日勤の警察官はまだ出勤前なのか。
中は暗く、受付にも人の姿は見えなかった。
「……し、失礼します……」
恐る恐る声を上げてみるも、誰も出てくる気配がない。
そのまましばらく哲矢がじっと待っていると、ようやく当直明けらしき若い男の警察官が眠たそうに欠伸をしながら、大量の書類を両手に抱えてフロアに姿を見せた。
彼はこちらの存在に気づいていない様子だったので、哲矢はもう一度声を上げた。
「す、すみませんっ!」
それでやっと男は哲矢の存在に気づいたようであった。
だが、すぐに警戒の視線が哲矢に飛んでくる。
まるで、不審者を見るような目つきで哲矢の姿を上から下まで一瞥すると、男は目を鋭利な刃物のように尖らせて首をひねった。
そこには今しがたまでの眠たそうな男の姿はなかった。
さすが警察署と言ったところか。
そのプロフェッショナルな切り替えの早さに、哲矢は思わず身じろいでしまう。
それと同時に留置場での制約的な日々が甦り、この選択は間違いだったのではないかという不安が哲矢を襲うのだった。
「こんな朝早くどしたの」
男はいかにもフランクな口調を装って声をかけてくる。
泥だらけの恰好や小脇に抱えた女性用のバッグのことには一切触れず、彼は書類を抱えたまま受付カウンターに入る。
所謂、警察官の常套手段である。
本題をはぐらかし、相手を油断させて本音を聞き出す。
それは、この数日の取り調べで哲矢が学んだことの一つであった。
そして、それが分かってしまうと、哲矢の中に冷静さが戻ってくる。
慌てる必要はない。
何も疚しいことはないのだ。
予め用意しておいた台詞を頭の中で一度復唱すると、哲矢は彼の目を真っ直ぐに捉えてこう続けた。
「荷物を受け取るのを忘れてたんで、取りに来たんです」
「荷物?」
「は、はい。昨日までこちらの留置場で寝泊まりをしてまして……あ、もう釈放はされてるんですけど……。まだ、荷物を受け取ってなかったもので……それで、その……受け取りに……」
「…………」
哲矢は自分では冷静に話をしているつもりであった。
けれど、目を外さずにじっと見つめてくる警察官の圧がすごすぎて、哲矢は思うように話をすることができなくなってしまう。
男の表情は見る見るうちに強張っていく。
なぜ、このような早朝に保護者の同伴もなく、全身泥だらけのまま一人で現れたのか。
彼が不審に感じるのも無理はない。
おそらく、どう問い質すか精査しているのだろう。
2階の留置場へ上がって事実を確認しに行く素振りを見せることなく、男はただじっと哲矢の姿を黙って見つめていた。
そして、お決まりの台詞を口にするのだ。
「そーか、んじゃ、奥で詳しく話訊くからついて来て」
両手に抱えた書類をその場に置くと、カウンターを抜けて哲矢へ近寄ってくる。
「ま、待ってください……! 俺は本当に荷物を受け取りに来ただけで……」
「分かってるって。話をちょーっと訊くだけだからさ」
「また、そうやってッ……!」
取り調べを受けた際のトラウマが甦り、哲矢はつい声を荒げてしまう。
それで男はさらに確信を強めたのだろう。
そのまま哲矢の背後に回り込むと、強引に腕を掴んでくるのだった。
「こっち来い」
「は……離してください……!」
やはり、警察相手には話は通じないのだ、と哲矢は思った。
本当のことを言っても信じてもらえないのである。
抵抗も虚しく、無理やりカウンター奥の部屋へと連れて行かれそうになる哲矢であったが……。
「――おい、なにごとだ?」
その時、廊下の向こう側から署員らしき白髪交じりの男が姿を見せる。
(あっ……)
哲矢は瞬時に気がついた。
彼があの留置管理官その人であるということに。




