第358話 彼らがいた場所
瞼がゆっくりと開く。
ここはどこで一体自分は何をしようとしていたのか。
一瞬、哲矢は自身の記憶を失っていた。
ただ、こんな状況にあっても、心は湖畔に佇むボートのように静かで落ち着いているから不思議だ、と哲矢は思う。
(こんな場所があったのか……)
哲矢は仰向けに寝転がりながら、暫しの間安らぎを感じていた。
周囲を見渡せば、木々の隙間から光の柱が零れ落ちていて、その場に神秘的な光景を作り上げていた。
耳を澄ますと風のそよめきや鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
新しい朝を迎えようとしているのだ。
それが分かった瞬間――。
「……ッく……!」
突如、記憶が甦ってくる。
口元についた泥を手の甲で拭うと、哲矢は素早く体を起こした。
(俺……眠ってたのか……?)
どうやらこの場で寝てしまっていたようだ、ということに哲矢は気がつく。
寝惚け眼を擦って、さらに周囲へと目を向ける。
すると――。
「なっ……!?」
信じられない光景を目の当たりに、哲矢はハッと息を呑んだ。
あれほど散々に掘り起こされていた土は、まるで何ごともなかったかのようにすべて埋められており、その場に綺麗な平面を続かせていた。
まるで一本のチョークでさらっと線を引くみたいに。
真夜中のうちにあった出来ごとはすべて夢だったのではないか。
そんな気さえしてきてしまう。
しかし、蓄積された疲労感と全身に付着した汚れの跡は嘘を吐かなかった。
あれはすべて現実にあった出来ごとだったのだ。
(そ、そうだ……! 将人はッ……!?)
その時になってようやく、哲矢は将人の姿が見当たらないことに気づく。
土は全部戻されてしまっていたため、木箱もどの辺りに埋められていたのか、今となっては分からなくなってしまっていた。
シャベルも見当たらない。
だが――。
一つだけ見覚えのあるものが哲矢の目に入った。
(あれは……)
そのあまりにもこの場に不釣り合いな物の存在がかえって哲矢の意識を覚醒させる。
哲矢は体をゆっくりと起こすと、それが置かれている場所までそっと近づく。
まるで、夢の残骸のように、ピンク色のショルダーバッグが地面にぽつんと放置されていた。
ポリ袋に付着した泥を払い除けると、哲矢はそのバッグを拾って小脇に抱える。
将人がこの場にこれを置き去りにしたということは、何かしら意味があると思ったのだ。
(とにかく、一旦ここから出よう)
痛む節々を押さえながら、哲矢は雑木林の斜面を下っていく。
そのまま公園の歩道まで出ると、真っ先に近くの時計塔が目に入った。
「6時53分……」
大体7時間近く、先ほどの場所に留まっていた計算になる。
改めて、哲矢は自分たちが土を掘り返していた場所を見上げてみる。
そこは何の変哲もない雑木林に囲まれた小山であった。
あの中に自分たちはいたのだ、と哲矢は思う。
そして、その場所はあまりにも日常の景色と同化していることに哲矢は気がつく。
〝真夜中の大雨〟というフィルターがなければ、そこはどこにでもありふれた光景の中に紛れ込んでしまう。
やはり、このような場所に白骨化した人間の死体が埋められているとは哲矢には想像できなかった。
◇
哲矢は小山を背にして歩道を歩き始める。
辺りはすでに散歩やジョギングをしている人たちの姿があった。
だが、すれ違うたびになぜか彼らの視線がこちらを向くことに哲矢は気がつく。
最初は律儀に会釈を繰り返していたが、次第に人々の返しがどれも似たような味気のないものであることが分かると、哲矢はようやく自分が全身泥だらけの恰好のままであるということを思い出す。
(マズいな……)
しかも、脇にはピンク色のショルダーバッグを抱えている。
日曜日の早朝にこのままの恰好で出歩くのはかなり目立つと言えた。
何か着替えるものがあればよかったが、そのほとんどは宿舎に置いてきたままである。
連絡手段がないため、洋助たちと連絡を取ることもできなかった。
しかし――。
(……いや、そうじゃないっ!)
哲矢はすぐに思い出す。
この数日間は、桜ヶ丘中央警察署の留置場で寝泊まりをしていたのだということを。
幸い、荷物はまだ受け取っていなかった。
このままの姿で歩き回っていれば、いずれ通報されて警察に連れて行かれる可能性があった。
それならば、自らの足で出向いた方が時間の短縮にもなり得る。
この早朝になぜそんな泥だらけの恰好でいるのかと不審がられることは間違いなかったが、現に死体は出てこなかったのだ。
例え何か問われたとしても臆することはない、と哲矢は思う。
(よしっ! 行こう!)
哲矢は覚悟の上、ひとまず桜ヶ丘中央警察署を目指すのであった。




