第336話 さかしま
「くそっ! 目に入った……!」
雨が跳ね返って泥が将人の顔にかかる。
彼はそれを手の甲で拭いながら、再び前髪をかき上げた。
だが、いくら拭ったところで、この大雨の中ぬかるんだ土の上では意味をなさなかった。
泥は何度でも将人の体にかかる。
また、彼の制服はぐしょぐしょに濡れてしまっていた。
冷たい雨が体温を確実に奪っているに違いない、と哲矢は思う。
お互いにこれ以上の長居は限界なところまで来ている。
それが分かったのだろう。
将人は触れていたシャベルの取っ手を力強く掴むと、改めて土掘りを再開させながらこう続きを口にする。
「……だから、他の人格は自分が多重人格者だって自覚はないんだ。当然、俺が犯した罪も知らないし、知ることもできない」
「…………」
〝俺はさ……人殺しなんだから〟
先ほどの将人の言葉がフラッシュバックする。
この空間を非日常たらしめている最大の原因は彼のその台詞だ。
いくら覚悟を決めていたとはいえ、すんなりと受け入れられる内容ではない。
だが、射貫くような将人の鋭い眼光を目の当たりにしてしまうと、彼の言葉も納得せざるを得ない、と哲矢は思う。
(将人は……本当に誰か殺したんだ……)
そのまま彼は、真っ暗闇の頭上に向けて顔を上げると、勢いよく降りしきる雨に逆らうようにしてこう短く呟く。
吐く息は少しだけ白く見えた。
「俺は4年前の閏日――福岡へ引っ越す前日に、このシャベルを使ってある男を殺したんだ。そして、そいつの死体を埋めた。この小山のどこかに」
「……っ……」
すでに哲矢の頭はパンク寸前の状態にあった。
あまりにも現実とかけ離れた話ゆえ、理解が上手く追いつかないのだ。
(死体を埋めた……?)
必死で彼の言葉を頭の中で繰り返し唱える。
理解しようと努めることで精一杯であった。
一方の将人はというと、そんな哲矢の混乱などまったく気にする様子もなく、平然とした口調でこう続ける。
そこには、懺悔の念のようなものは一切感じられなかった。
「そいつは最低な野郎だった。死んで当然の男だったんだ。俺は……事前に念密な計画を練って、ヤツが一人になる瞬間を狙って襲いかかった。〝絶対に殺してやる〟って、強い信念を持って」
もはや、哲矢は間に何か言葉を挟むこともできなくなっていた。
ただ黙って辛抱強く将人の言葉に耳を傾ける。
意味を考えることなら後でいくらでもできる、と思ったのだ。
今やらなければならないことは、目の前の将人ときちんと向き合うことであった。
哲矢は手にした懐中電灯の光に目を落とし、受け身のままただ彼の口から紡がれる言葉を飲み込み続ける。
やがて――。
その行為は哲矢に将人の深部を覗かせるのだった。
「……あの日の夜も、こんな風にして土砂降りの雨が突然降り始めた」
まるで朗読でもするかのように将人は回想をそう切り出す。
その出だしを受け入れてしまうと、彼の世界に入り込むまで哲矢はそう時間はかからなかった。
「俺は翌日の引っ越しの準備をひと通り済ませると、親父が寝てる隙を見計らって自宅をそっと抜け出したんだ。親父は毎晩晩酌する癖があって、一度眠ると朝まで起きなかった。それは引っ越しの前日でも変わらなかったよ」
「透明なレインコートを羽織って外に出ると、俺は大雨に打たれながら第三区画まで急いで向かった。ある団地の前にのびる歩道の茂みに隠れて、あの大男が仕事から帰宅してくるのを息を潜めて待った」
「茂みには殺害に使う道具を予め隠していた。このシャベルと、大人の男が余裕で一人入るくらいの木箱、それに大型のリヤカー。帰宅途中のヤツをシャベルで襲って殺した後、死体を木箱の中に入れて、リヤカーで遺棄するポイントまで運ぶつもりだったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、哲矢はハッとした。
(まさか、あれは……)
パン屋の一室に異彩を放つ形で放置されていたあのリヤカーは、もしかするとこの時のために将人が用意したものだったのかもしれない、と哲矢は思った。
だが、それとは別にもう一つ気になる言葉が彼の話の中に紛れ込んでいた。
つい哲矢はそれについて訊ねてしまう。
「遺棄するポイントって……つまり、死体を捨てる場所ってことか?」
「そう。最初は、同じ区画の外れにある小さな公園に捨てるつもりだったんだ。あの辺りは当時から廃れていて、ほとんど人も寄り着かない場所だったから。さっき、商店街周りの景色を見てきたから分かるだろ? 第三区画の半分近くは、もうほとんど廃墟になっちまってる。誰も好き好んで寄ったりしないんだ」
「だから、そこに捨てることにした。あの場所なら少なくとも数年はバレることないって思った。一角に予め穴を深く掘って隠しておいて、そこに木箱ごとヤツを埋めるつもりだったんだよ」
将人の手はそう口にしている間も土を掻き出し続けていた。
「…………」
そんな彼の姿を見ながら哲矢はふと思う。
それらすべて将人が一人で行ったことなのだろうか、と。
どうも現実味を欠いているように哲矢には思えてならなかった。
けれど、それ以上哲矢が考えるよりも前に将人の言葉が続く。
哲矢は彼の過去へ再び引き込まれていくのであった。




