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第306話 トリガーについて

 去り際に美羽子に忠告された通り、駅前から少し離れるとそこは辺り一面黒の海であった。

 所々に心許なげな街灯が点在するだけだ。


 こうしてほとんど真っ暗闇の中に身を置いていると、郊外にあるとはいえここが東京であることを哲矢は一瞬忘れてしまいそうになる。


 将人が懐中電灯をリクエストした意味が今なら分かった。

 手元に明かりがなければ、忘れものとやらを探すのにもきっと苦労したに違いない。


 哲矢たち三人は、将人が足元に照らす懐中電灯の明かりを頼りにその背中を追っていた。

 彼は、どこを目指しているかなども告げず、団地が両端に連なるニュータウンの歩道を歩き続けていた。






――――――――――






 それからどれくらいの間、将人の後を追いかけただろうか。

 暗闇の中で似たような景色が続き、哲矢の感覚はやがて麻痺してくる。


 将人が振り返ることは一切なく、まるで彼は一人で探索を続けているような態度だ。


「アイツ……」


 さすがにこの状況に痺れを切らしたのだろう。

 メイは短くそう呟くと、堪らずといった様子で彼の背中目がけて大声を投げつける。


「いつまで歩き続けるつもりよっ!」


 夜も更けて周りは団地やマンションばかりであったが、メイは構わずに声を張り上げ続けた。


「それくらい教えてくれたっていいでしょ? 皆こうやって協力してるんだから!」


「おいメイっ……少しボリューム下げろって」


「なにがっ」


 これ以上続けさせるとさすがに近所迷惑になると思い、哲矢がメイにそう声をかけたタイミングで、前を歩く将人がぴたりと足を止める。

 そのまま彼は哲矢たちの方を振り返ると、これまで守り続けてきた沈黙を解いてこう答えるのだった。


「歩き回ってれば、そのうち見覚えのあるところに出るんじゃないかって思ってね」


「はぁっ? それで闇雲に歩き回ってるってわけっ!?」


 将人の軽返事にメイは怒りの色を滲ませてさらに噛みつこうとするが、哲矢には今の彼の言葉は何か真意を隠すためのカモフラージュのように感じられた。


 そして、それはどうやら隣りにいる花としても同じ考えであるようであった。

 彼女は一歩前に足を踏み出すと、意図的に隠したその真意をはぎ取るように、冷静にこう口にする。

 その顔からは、すでに怯えの感情は消えていた。

 

「将人君。将人君が探してるものって一体なんなのかな? なんで今それを探さないといけないんだろう?」


「…………」


 将人は一度、花の瞳を覗き込むようにしてじっと見つめると、それから再び前に向き直る。

 

 チカチカと切れかかった街灯の点滅する音が歩道に響く。

 初夏を感じさせる夜風が四人の間をすり抜け、ニュータウンの煌めきの中へと消えていった。


 将人はそのまま顔を上げると、夜空に浮かぶ満天の星を見上げながらこう口にする。

 ここがあの東京かと疑いたくなるほどの光景が頭上に広がっていた。


「……このニュータウンのどこかに〝それ〟はあるはずなんだ。とても大切なことなんだ。だから、今それを探さないといけない。もう時間がない。急ごう」


 質問の答えにはなっていなかったが、彼のその言葉を受けると、花はそれ以上何を訊くことはなかった。

 懐中電灯を振りながら、将人は再びニュータウンの歩道を歩き始める。


「なんなのよっあの男……」


 メイだけはそんな将人の態度にまだ納得できていない様子であったが、哲矢はなんとか彼女をなだめる。


「将人の記憶を取り戻す手がかりになるかもしれないんだ。もう少しこのまま様子を見ようぜ? メイもそう思ったから最初あいつの提案に乗ったんだろ?」


「……フン」


 短く鼻を鳴らすと、渋々といった様子でメイも再び将人の後に続くのだった。

 

「哲矢君」


 メイの背中を目で追ってその場で哲矢が立ち尽くしていると、花が小声で声をかけてくる。

 その口調はどこか神妙であった。


「哲矢君はさ、将人君のアレ……どう思ってる?」


「え? アレって?」


「その……さっき、病室で……」


「あ、あぁ……アレか」


 花からその話題を振ってくるとは正直意外だ、と哲矢は思った。

 というのも、彼女も自分と同じように病室での出来ごとは考えないようにしているものだと思っていたからだ。


 大貴が事件の自白をし、将人が正式に釈放されようとしている矢先のことゆえに、今は余計なことは考えたくないというのが本音であった。

 そのようにして自分の感情を守らなければ、今まで何のために突き進んできたのか分からなくなりそうで、哲矢は不安だったのである。


 そして、それは花としても同じに違いなかった。

 ここに来て将人を疑うような真似はしたくないはずだ、と哲矢は思う。

 しかし――。


 アレが無視できる問題ではないこともまた事実であった。

 やはり、どこかのタイミングで一度確認しないわけにはいかないのだ。


 花はあえてその事実と正面から向き合おうとしている。

 そのことが分かったからこそ、哲矢もそれと向き合う覚悟を決めるのだった。

 

 ゆっくりと頷きながら、花は言葉を続ける。


「……さっき、私が将人君に麻唯ちゃんの手を強引に握らせたから、ああなっちゃった気がして……」


「手?」


「うん。二人の手が触れた瞬間、将人君の表情がみるみるうちに変わってくのが分かったの。まるで、それが引き金となったみたいに。もしかしたら、あの日も――」


 そこまで言って、花はハッと口を閉ざす。

 無意識のうちに口を滑らせてしまったのだろう。

 だが、哲矢には彼女が何を言おうとしていたのかがすぐに分かった。


 あの日――つまり、麻唯が教室の窓から突き落とされた日。

 その日も同じようなことが起こったのではないかと、花は考えてしまったようであった。


 パッ。


 突然、花の足元に懐中電灯の明かりが点く。


「……哲矢君、いこ。このままじゃ将人君たち見失っちゃう」


 ふと、哲矢が前方に目を向ければ、将人とメイの背中はかなり小さくなっていた。


「ああ……」


 哲矢が頷くのを確認すると、花は今しがたの発言から逃げるように足早に歩き始めてしまう。

 同じように哲矢も懐中電灯を点灯させると、彼女の後を追うのだった。

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