第301話 何処へ行く
しばらくの間、大勢で将人の体を押え続けていると、彼はこれまでの暴走が嘘のようにスッと大人しくなった。
やがて、看護師たちに取り押さえられるようにして外に出されると、将人はそのまま廊下の長椅子に座らされることとなる。
哲矢は将人が呼吸を整え、彼が完全に落ち着くのを見届けてから一旦病室へと戻った。
将人が連れ出された後の室内は騒がしさの余韻を残し、局地的な嵐に見舞われたように辺り一面には物が乱雑に散らばって、彼がこの場所で暴れ回ったという痕跡をしっかりと残していた。
幸い眠り続ける麻唯に別状はないようであった。
少し掛け布団やシーツが乱れた程度で外傷は特に見当たらない、とメイは口にした。
「そっか……」
安堵しながら哲矢は一度ベッドの上で眠る麻唯の方へ視線を向ける。
彼女を見守るようにして、聖菜がその頬に手を当てて身を屈ませていた。
まるで、親子の空間だけ時間が止まってしまったかのように静かだ。
対して病室にあるカレンダーや花瓶、点滴台や小型テレビなどは、あらぬ方向へと投げ飛ばされてしまっていた。
「…………」
花は無言のまま茫然とした表情でその場にしゃがみ込んで生気のない視線を辺りに漂わせていた。
そんな花の様子を横目に見ながら、メイが哲矢に小声で話しかけてくる。
「そっちはどう?」
「ああ。さっきよりも大分大人しくなったよ」
「そう……。まさか、こんなことになるなんて……。ヨウスケたちにはどう説明するの?」
「今はまだ少し様子を見よう。報告はそれからでも遅くないと思うから」
「……分かったわ」
おそらくメイも気づいていることだろう、と哲矢は思う。
こんな騒ぎがあったと鑑別局の人間に知られたら、きっと明後日の審判に多大な影響がある、と。
あまりに突然のことに、哲矢も周りの皆と同様、まだ上手く状況を飲み込めていなかった。
(どうしたんだよ、将人……)
弱音が零れ落ちそうになるのを堪え、哲矢は頭を振って自身を奮い立たせる。
「ひとまず、散らかった物を手分けして片づけようぜ」
「そうね」
哲矢は聖菜に深々と頭を下げてから断りを入れると、メイと一緒に辺りに散乱した物を片づけ始める。
聖菜は口では「彼に怪我はない? 大丈夫?」と、将人を気遣う素振りを見せていたが、彼女としても当然状況がよく飲み込めていないに違いなかった。
ひと通り作業を終えると、哲矢はメイに外へ出るように手で合図を送る。
「すみません。ちょっと将人の様子見てきます」
そう聖菜に挨拶をすると、哲矢はメイを連れて一度病室を出た。
退出時花の姿が目に入ったが、今将人と対面させたとしても決していい結果になるとは思えなかったので、哲矢は一旦彼女はその場に置いておくことにした。
「ふぅ……」
ドアを閉めて廊下に足を踏み入れると、自然と哲矢の口からため息が漏れた。
正直、あの狭い空間の中にいると、将人の暴走がフラッシュバックして、いたたまれない気持ちとなるのだ。
「…………」
それはメイとしても同じようであった。
ため息こそ漏らすことはなかったが、どこか一気に緊張が解けたようにぐったりとブロンドの長い髪をだらりと下げる。
スカートの裾をキュッと持ち、何かを堪えるようにメイは唇を薄く噛んでいた。
もちろん、こんなところで休んでいる暇は哲矢たちにはなかった。
「よし、行くぞ」
哲矢はメイの背中をポンと軽く叩くと、少し先の廊下で長椅子に座る将人の元へ向けて歩みを進める。
看護師たちに囲まれて受け答えをする将人は、遠目から見る分だと理性を取り戻しているように見えた。
将人の元へさらに近づこうとすると、チーム長らしき男の看護師が哲矢たちの存在に気づき、手の平を見せながら寄ってくる。
「失礼。彼は君たちのご友人?」
「え……あっ、はい」
「今は冷静に受け答えができてます。さっきよりかなり落ち着いてきました。それで一ついいですか?」
端正な顔立ちの男は襟元を正すと、小声でこう告げてくる。
「ここは病院です。今は多くの患者たちが就寝してます。このような騒ぎが起こればどうなるか……君たちもお分かりですね? 夜勤はただでさえ人手が少ないんです。これ以上、なにか問題が起こるようなら、我々も警察を呼ばなければなりません。ですから、しばらくしたら彼を連れて帰ってください」
そう淡々と言葉にする男の声色からは明らかに怒りの感情が読み取れた。
当然と言えば当然である。
本来ならば、これは彼らの仕事とは何ら関係のないことなのだ。
哲矢にできることは誠意を込めて謝ること以外なかった。
「……本当にすみません。ご迷惑をおかけしました……」
深々と哲矢は頭を下げる。
メイもここで何か突っかかっていくようなことはなかった。
これ以上騒ぎを起こせば、麻唯や聖菜にも大きな迷惑が及ぶと分かっているからだろう。
男は去り際に哲矢とメイの姿を一瞥すると、将人の周りに留まっていた看護師たちを引き連れてナースステーションへと戻っていった。
その姿が完全に見えなくなるのを確認すると、哲矢は将人の横に腰をかけ、両手を組んで屈んでいる彼に声をかける。
「大丈夫か?」
「…………」
将人は哲矢の問いには答えず、リノリウムの床に視線を落としたまま黙り込んでいた。
メイも長椅子の端にちょこんと座り、話に加わってくる。
「マサト、今日はもう帰るわよ。これ以上、ここに長居できないわ」
そうメイが促しても将人は無言のままで、その言葉が彼の耳にきちんと届いているのかは分からなかった。
ただ、床の一点だけを見つめて何か考えごとをしている様子だ。
彼の手の甲には深い擦り傷が刻まれていた。
少しだけ出血もしている。
きっと、暴れ回った時にどこかにぶつけて怪我をしてしまったのだろう。
ふと、先ほどの光景が哲矢の脳裏にパッと甦った。
(……あれは、本当にこいつがやったことなのか?)
自分は夢を見ていたのではないかと一瞬思う哲矢であったが、あれが現実であるという証拠が今目の前にあった。
彼の擦り傷を見れば疑う余地はない。
理由は分からないが、あれは実際に将人が起こしたことなのである。
男の看護師が懸念するように、ここで再び同じようなことが起こらないとも限らない。
メイが言う通り、まずは一刻も早く病院を出る必要があった。
「なあ、将人。早くここから出なくちゃいけないんだ。病院側も俺たちにいい印象を持ってない」
「…………」
「ぐずぐずしてると、警察も呼ばれて――」
そう哲矢が口にしかけたところで。
「一ヶ所だけ……」
突然、将人が小さく声を漏らした。
そのまま彼はゆっくりと顔を上げると、静かにこう続ける。
「一ヶ所だけ行きたい場所があるんだ。付き合ってくれないか?」




