第300話 豹変は突如として
麻唯は前回、前々回とまったく変わらぬ姿で眠り続けていた。
近くに設置されている心電図モニターは同じように規則的な音を刻み続けている。
「麻唯ちゃん……約束どうにか守れたよ」
花は腰を屈めて眠る彼女にそう声をかける。
手をそっと握り締めながら、まるで返事をしてくれることを期待するように優しく語り続けた。
次第に花の瞳には涙の粒が浮かんでくる。
やがて――。
「……ぅっ……ぅうぅ……」
短い嗚咽を漏らすと、花は麻唯が横たわる純白の掛け布団に顔をうずめながら、悔しそうに涙を噛み殺すのだった。
できることなら言葉を交わしたい。
それができないもどかしさ。
このままずっと目を覚まさないのではないかという恐怖。
そんなものが一気に押し寄せてきて、花を深いところに閉じ込めてしまっている。
(そうなんだ……)
まだ花は抜け出せていないのだ、と哲矢は思った。
大貴が自白をし、将人の無実が証明されたとしてもそれはまだ過程でしかない。
麻唯が目を覚まし、将人の記憶がきちんと戻って、初めて花は本当の笑顔を取り戻すことができるのである。
「ご、ごめんね……なにやってんだろ、私……んへへ……」
掛け布団からすぐさま顔を上げ、空元気に振る舞う花の姿を見ていると、まるで過去の自分がそこにいるようで、哲矢は胸がギュッと締めつけられる思いを抱く。
自分の力だけではどうにもならないことは確かに存在する。
あとは、時が解決するのを待つしかない。
今の花はそんな過渡期にいるのかもしれない、と哲矢は思うのだった。
「……そうだ。今日はね、将人君が一緒にお見舞いに来てくれたんだよ。ほら、将人君っ。麻唯ちゃんに顔を見せてあげて」
花は指先で涙の跡を拭うと、将人の腕を掴んで彼をベッドへと近づける。
「手を握って」
「……うん……」
花に言われるがまま将人は、掛け布団の上に置かれた麻唯の白く透き通った手に触れようとする。
その様子をどこか緊張した面持ちで眺める聖菜の表情が哲矢の目についた。
「どう? 将人君だって分かる?」
将人が手をしっかりと握り締めるのを確認すると、花は麻唯にそう訊ねるのだったが……。
その瞬間、異変は起こった。
「う゛ぅぅがぁあぁあぁーーーー!!」
突如、けたたましい奇声を上げた将人が麻唯の手を強引に跳ね除けると、ベッドの縁に掴みかかって暴れ始めたのだ。
麻唯の体はそれに合わせて激しく波打ち、部屋いっぱいにガシンッガシンッという鈍い音が響き渡る。
「ま、将人君ッ!?」
唖然とする花同様、突然の出来ごとに哲矢もメイも反応が遅れてしまう。
だが、この事態に聖菜一人だけは冷静であった。
ビイイイイイイイイイイイーー!!
彼女が素早く緊急ブザーを鳴らすと、その音に反応するように哲矢はハッと我に返る。
「あ゛ァあぁッ!! がぁッぁ!! ォァあぁ!!」
掛け布団を引き払い、もはや奇声というよりも咆哮に近い雄叫びを上げながら、なおも暴れ続けようとする将人の背中に哲矢は勢いよく飛びかかった。
「将人ッ……やめろおぉぉっ!!」
哲矢は寸前のところで将人の狂った拳が麻唯まで届くのを阻止する。
しかし――。
「っ……なッ……!」
スリムな彼の体のどこに一体そんな力が秘められているのか。
「うぁぁっ!?」
得体の知れない怪力によって哲矢はその場にふっ飛ばされてしまう。
「ハナッ! 下がって!」
身の危険をすぐに察知したのだろう。
メイは茫然とその場で立ち尽くす花の腕を強引に取ると、そのまま部屋の隅まで後退する。
「くがぁッあォガあぁぁッーーーー!!!」
将人は依然として部屋中に大きく反響する雄叫びを上げ続けていたが、哲矢に背中を取られた反動で麻唯から意識が逸れたのか。
今度は身近にある物に掴みかかってはそれを手当たり次第に投げ飛ばし始めるのだった。
「……く、ぅっ……」
「あ、あなた……大丈夫っ……!?」
壁に頭を強く打ちつけ、床に転がった哲矢の元へ聖菜が素早く駆け寄ってくる。
心配そうに声を震わせるそんな彼女の姿を見て哲矢は気づいた。
この場に男手は自分一人しかいないということに。
(……ッ、俺が止めないと……!)
自らを奮い立たせると、哲矢は手で合図を作って聖菜を引き下がらせる。
暴れ続ける将人の背後にそっと近づくと、隙を見計らって哲矢はもう一度彼の背中目がけて飛びかかった。
「――ッ!?」
今度のそれは体当たりに近い形となり、将人の意表を突くことに成功する。
彼は前に体勢を崩し、そのまま床に転げてしまう。
「大人しく……しろぉぉッ!!」
「ぐッッ……」
床に顔を打ちつけ、それでも抵抗を試みようとする将人の体に馬乗りとなりながら、哲矢は必死で彼を押さえつけた。
すると、ちょうどそのタイミングで。
「――どうしましたかっ!?」
聖菜の緊急ブザーを聞いて駆けつけてきた数名の看護師たちが一斉に病室へと雪崩れ込んでくる。
おそらく、ナースステーションまで騒ぎは響き渡っていたのだろう。
彼らは緊迫した面持ちで乱雑に散らかる室内の様子を一瞥していた。
「彼が暴れてるのッ!」
メイがなおも抵抗を続ける将人の方を指さすと、看護師らは自分たちが今何をすべきか瞬時に悟ったようであった。
すぐさま加勢する彼らの力を借りて将人をどうにか拘束すると、ようやく事態は収束する。
この間、ほんの数分の出来ごとであった。




