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第293話 あなたは、ある一人の女の子に救われているのよ

 ステージでは将人の簡単な挨拶が続いていた。

 翠が言う通り主役の登場ということもあって、会場の熱気は最高潮に達しているようだ。


 哲矢は、テーブルに戻ってきたメイと大きく拍手を繰り返す洋助と一緒にその光景を見つめていた。

 やがて、挨拶もひと段落すると、将人はステージを降りて皆の輪の中に加わる。


 ふと、その時――。

 不安そうな顔をした花が将人に向けて小さく手を振っているのが見えた。


 将人もそれに気づいたのか。

 一度花の方に目を向けると、歩みを再開させる。

 そのまま花のテーブルへ向かうものと哲矢は思うのであったが……。


 将人は突然向きを変えると、気恥ずかしそうに哲矢たちがいるテーブルへと向かってくる。


「高島……。僕の挨拶、どうだったかな……?」


「まあ、上出来だったんじゃない?」


「へへっ、そっか。ありがと……」


 メイが褒めの言葉を口にすると、将人は嬉しそうに鼻をかいた。


 その瞬間――。

 哲矢は、自分でも分からないくらい瞬発的に彼の胸倉に掴みかかっていた。


 テーブルが揺れて、グラスや食器がいくつか芝生の上に落ちる音が聞こえた。


「テ、テツヤ!?」


 近くから小さな悲鳴が聞こえる。

 しかし、それでも哲矢は構わずに将人の胸倉を掴み続けた。


「哲矢君ッ!!」


 とっさに洋助が間に入ってくる。


「……くっ!」


 哲矢は勢いよく将人を突き放すと、反動で芝生の上へと投げ出された彼は、首元を押さえ、息を荒くしながら哲矢の姿を唖然と見つめた。


「……はぁ、はぁっ……ぁッ……」


 将人は、あまりに当然の出来ごとに何が起こったのか分からないといった表情を浮かべている。

 そんな彼の姿を哲矢はじっと見下ろしていた。

 

「一体、どうしたんだ。哲矢君……」


 洋助がいつになく真剣な声で問いかけてくる。


「……す、すみません」


 哲矢はそう口にするだけで精一杯であった。

 なぜ、こんなことをしてしまったのか。

 自分でもよく分からないのだ。


 ただ一つだけ確かなことは、花の気持ちを考えたら自然と体が動いてしまったということであった。

 花がいるテーブルの方へ目を向けると、彼女は口元に手を当てて、驚きの表情を浮かべていた。


 きっと、こんなことは花も望んでいなかったはずである。

 青ざめていく周りの仲間たちの様子を見て、哲矢は自分が間違ったことをしてしまったことにようやく気づいた。


 あれだけ和やかな雰囲気で進められていた慰労会に気まずい空気が流れ始めた。

 誰も彼も動きを一度止め、哲矢と将人に目を向ける。

 スピーカーから流れるBGMだけが場違いに陽気な音楽を奏で続けていた。


 そんな会場の雰囲気に呑まれたのか。

 洋助は暫しの間黙り込んだままであったが、やはりここは大人が言うべきタイミングであることが分かったのだろう。


 哲矢に向き直ると、静かにこう口にする。


「僕に対して謝っても意味はないよ。ほら」


 そう言って洋助は、芝生に尻もちをつけたままの将人に目を向ける。


「…………」


 もちろん、洋助が言おうとしていることは哲矢は理解していた。

 だが、体が動かない。

 言うことを聞かないのだ。

 

「哲矢君っ!」


 そんな哲矢の態度を見かねたのだろう、ついに洋助が感情的な声を張り上げる。

 だが、その声に真っ先に反応したのは、哲矢ではなくメイであった。


 彼女は将人の元まで歩み寄ると、ゆっくりと手を引いて彼を起き上がらせた。

 そして、すぐに哲矢に目を向ける。


 厳しい言葉を投げかけられる、と哲矢は思った。

 その覚悟はしていた。

 それだけのことをしてしまったのだから。


 会場の空気を一瞬のうちにして壊してしまった。

 すぐに謝らなければならない、と哲矢は思う。

 しかし――。


「……仕方ないのよ、ヨウスケ。多分、テツヤはハナのことを思って、こんな行動を取ったんだって思うから」


 哲矢の予想に反してメイはフォローの言葉を口にする。

 そして、自らの行いを悔いるようにこう続けるのだった。


「私ももう少し周りのことを考えるべきだったわ。マサトを救ったのは私だって……そう勘違いしてたのかもしれない」


「メイ君……?」


「でも……それは違う。間違ってる。私はただ、最後にマサトの背中を押しただけ」


 メイはそう口にすると、今度は将人の方に向き直る。


「マサト。前にも話したと思うけど、あなたのことを一番に思ってるのは私じゃないのよ。最初からずっと、あなたのことを思い続けてる子がいるの」


「っ……」


 3日前に交わしたメイとの会話を思い出したのか。

 どこか予感めいたものを抱えた瞳で将人は彼女の顔を見返す。


 この場に例の〝女の子〟がいると、気づいたのかもしれない。

 メイは、そんな将人に対して心の準備を与えることなく、続けざまにある一方を指さす。

 その先には、もちろん花の姿があった。


「……あの手前のテーブルに座ってる子。カワサキハナ。あなたはあの子に最初に声をかけるべきだった」


 自分の名前が挙げられたことに気づいたのだろう。

 花は遠慮がちに、けれども真っ直ぐに、将人に目を向けていた。

 自然と将人も花を見返す形となる。


 どこか意識し合ったその視線の重なりを見届けると、メイは事実を確認するようにこう続ける。


「ハナがいなかったら、あなたは今こうしてこの場にいることができなかったかもしれない。マサト、感謝すべき相手は私じゃないの」


「……けど、僕は……」


 だが、メイにそう言われてもまだ実感が湧かないのか。

 将人はすぐに花から視線を逸らしてしまう。


 今の将人にとっては、記憶にない花よりも自分に親身になって接してくれたメイに関心が向いてしまうのだろう。

 それは、至極真っ当なことであった。


 だから、彼が花のところへは行かず、真っ直ぐにメイの元へ向かってきたとしても、それは別段不自然なことではないのだ。

 花に記憶があったとしても、将人にはそれが無いのだから。


(……なにをやってんだ、俺は……)


 そこでようやく、哲矢は自らの過ちに気づいた。

 やはり、自分は間違った行動を取ってしまったのだ。


 メイも将人の思いは十分に理解しているのだろう。

 口ごもる彼を見て相好を崩した。


「でもまあ、今すぐにそれを受け入れてほしいって言っても難しいわね。それは分かってる。でも、知っておいてほしかったの。誰よりもあなたの帰りを待ってた子がいたって」


「…………」


 理解が追いつくのには時間がかかるのかもしれない。

 将人はまだ、現実を受け入れられずにいるようだった。


 花ももちろん将人の思いには気づいている。

 だからこそ、自ら彼の元へ駆けつけるような真似はしないのだ。


 あとは将人の判断に委ねると口にするように、花はそっとメイへ向けて静かにアイコンタクトを送るのであった。

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