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第291話 未完の檻

「いや~。さすが関内君! 上手な挨拶だったよ!」


「急にはキツいって」


「でも、めちゃくちゃカッコよかった!」


「……なら、いいけどさ」


 ステージから降りると、まず翠がグラスを合わせにやってくる。

 後ろには野庭と小菅ヶ谷の二人もいて、彼女たちも控えめにグラスを掲げていた。


 その後も、続々と見知った顔が哲矢の元を訪れてはグラスを重ねていった。

 その度に哲矢は頭を下げて、お互いの労を労い合う。


「関内君」


 しばらくすると、グリーンのブラウスに青のデニムとカジュアルな恰好に着替えた美羽子がマーローをつれて哲矢に声をかけてくる。


「ああ、藤沢さん。いつの間に着替えたんですね」


「ええ。あの後、宿舎で着替えてからこっちに来たからね。そんなことよりも……この数日間、本当にお疲れさまでした」


「いえ。あの……こちらこそ、色々とありがとうございました。風祭さんから聞きましたよ」


「あの様子を見るにサプライズは大成功だったみたいね。この場を貸し切れる時間は一時間半だけみたいだから。あとはゆっくりと楽しんで」


「はい」


「それと……。感謝する相手は私じゃないわ」


 美羽子は近くのテーブルで一緒に話を弾ませているメイと花の元へ目を向ける。


「洋助さんから聞いたかもしれないけど、あの二人が今回の企画を考えたのよ」


「そう……みたいですね」


 気恥ずかしさから、少し他人行儀な返答をしてしまう。

 美羽子の目が妙にニヤけていることも影響したのかもしれない。


「そ、それじゃ、藤沢さんっ! そちらも楽しんでください!」


「えっ……ちょっと、関内君っ。まだ本題が……」


 哲矢はマーローの頭をくしゃくしゃと撫でると、彼女に最後まで言わせる前に逃げるようにしてその場を後にした。

 

 ――とは言っても、次に向かう先は限られていた。

 食事に夢中となっている一兵と、なぜか突然姿が見えなくなった洋助は除外するとして、まだ個人的に哲矢がグラスを合わせていないのはメイと花の二人だけに限られていた。


 最も身内であるため、彼女たちもまた、こちらとの乾杯は最後でいいと考えていたのかもしれない、と哲矢は思う。


(でも……)


 美羽子にけしかけられるような言葉を投げかけられたためか、どうしても二人のことを意識してしまい、哲矢はフランクに近づくことが出来なくなってしまっていた。


 すると――。

 その時、グラスを手にしたメイと目が合うのが哲矢には分かった。


 彼女は何かを悟ったようにすぐにジュースを飲み干すと、隣りに座る花に耳打ちをしてからどこかへと立ち去ってしまう。

 避けられたようなその態度に少しだけショックを覚え、メイの後ろ姿を哲矢が目で追っていると……。


「哲矢君~っ!」

 

 花がこちらに手を振っていることに哲矢は気づいた。

 メイのことを気がかりに感じつつも、さすがに無視をするわけにもいかず、哲矢はわざとらしく笑顔を作って花のテーブルまで足を運ぶ。


「ごめんね。挨拶が遅くなっちゃって。哲矢君、色々と忙しそうだったから」


「いや、俺の方こそ遅くなって悪かった」


「うん。じゃ、ひとまず乾杯だ?」


「ああ」


 カチン。


 透明なグラスが重なり合う音が辺りに響く。

 丁寧に中のジュースを飲み干す姿を見届けると、哲矢は花に向けて口を開いた。


「あの……。今回の企画は、花が中心になって立ててくれたみたいで……」


「えっ? 違うよ。メイちゃんが最初に言い出したんだよ。哲矢君が帰ってきたらお疲れさま会を開催したいって」


「そ、そうなのか?」


「メイちゃん、ホントに哲矢君のこと心配してたから」


「あ、ああ……。でも、その……花もありがとな」


「ううん。私こそ面会に行けなくてごめんね? 未成年者だけじゃダメだって警察の人にキツく言われちゃって……」


「それも風祭さんから聞いたよ。ありがとう。その気持ちだけですごく嬉しかった」


 哲矢がそう感謝の言葉を口にすると、花はにこっと優しく微笑むのだった。

 

 少しの間、二人の間に微かな沈黙が訪れた。

 しかし、それは居心地の悪いものではない。

 お互いに信頼関係が成立しているからこそ成せる間で、哲矢と花はその空間に安心して身を委ねていた。


 近くからは、皆が賑やかに歓談する声が聞こえてくる。

 ステージ横に設置された大型スピーカーからは緩やかなラテンのBGMが流れ、三脚の投光器が辺りを明るく照らし、豪華な食事が会場に彩りを与えていた。


 4月の夜風がひんやりと池の水面を揺らしているのがテント越しに見える。

 公園を歩く人々は、不思議そうにこちらの様子を覗いては通り過ぎていった。


 そんな景色のどれもが今の哲矢にとっては貴重な一瞬であった。

 いつかこの瞬間を自分は必ず思い出すことになるだろう、と。

 そんなことを考えながら、哲矢はふと夜空を見上げる。


 やがて――。

 花は空となったグラスをテーブルに置くと、懐かしそうに目を細めながら話を再開させた。


「……なんだか、こうして二人でゆっくりと話をするのも久しぶりだね」


「そうだな。本当に色々とあったからな」


「うん」


 こうして花と並んで話をしていると、3日前の光景が自然と甦ってくるようであった。


 渦を巻く体育館の熱気。

 喜怒哀楽を繰り返す会場の声。

 自己保身ゆえに躍起となる大人たち。

 最後まで信じてくれた仲間。


 そんなものが一瞬のうちにして哲矢の脳内にフラッシュバックする。

 どれも遠い過去の幻のように思えた。


「…………」


 花も同じことを考えているのだろうか。

 無言で俯くその透き通った表情からは、何を考えているのかが哲矢には読み取れなかった。


 果たして自分たちは正しいことをしたのか、確信が持てないのかもしれない。


 結果的に生徒会長の座は守られ、将人の無実は証明されたわけだが、彼女が望んでいるであろう日常はまだ戻ってきていない。

 花にとって今は、まだ完全なものではないのだ。


 それは、未だに麻唯が目を覚まさないことも理由であるだろうし、何よりも桜ヶ丘市や宝野学園に対しての見方が大きく変わってしまったことが大きく影響しているかもしれなかった。


 その現実を突きつけたのは自分でもあるのだ、と哲矢は思う。

 けれど……。


 彼女はすぐに顔を上げると、いつもの穏やかな笑みを携えてゆっくりとこう口にする。


「……あの日、体育館の袖幕で私が口にした言葉は本当だよ。誰かがきちんと言わなくちゃ、きっと前に進めなかった。こうなる運命だったって。私、哲矢君にはすごく感謝してるんだ。改めてお礼を言うね」


「花……」


 それは、こちらに気を遣って出た言葉というわけではない、と哲矢は思う。

 花は本心でそう口にしているのだ。

 澄んだ彼女の瞳を覗けば、それは疑いようのないことであった。


「こっちこそ、本当にありがとう」


「んふふっ、お互いさまだ」


 嬉しそうな笑みを浮かべる彼女のその表情を見て、哲矢は自身の後ろめたさが解きほぐされていくのを感じるのであった。

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