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桜色の街で ~ニュータウン漂流記~  作者: サイダーボウイ
第1部・桜色の街編 4月6日(土)
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第28話 再出発

 何かを熟考するように目を閉じていた洋助はやがて小さく頷くと静かにこう口にする。


「……分かった。ではあと3日だけ。少年調査官を哲矢君にお願いするとしよう」


「えっ!?」


 真っ先に声を上げたのは先ほどから顔を俯かせていた美羽子であった。

 彼女は再び興奮しながら激しく洋助に抗議する。


「いいんですかっ!? そんな自分勝手な理由のために延長なんてしたら絶対懲罰の対象になりますよ! それに引継ぎだって……」


「引継ぎは僕がすべて処理します」


「……で、でも! 首席だって納得するとは思えませんっ……! ただでさえ、人手が足りていないっていうのに……」


「大丈夫。予備の期間を使うだけだから。伊勢原さんには僕から話すよ」


「……っ……」


「美羽子君、彼がこう決断した原因は僕たちにもあるんだ。これは上司命令です」


 毅然とした態度で洋助は美羽子の言葉を押し戻す。

 美羽子はそれ以上何も言えずに固まっていた。


 やがて、彼女は吐き捨てるように言葉を残すとそのままリビングから出て行ってしまう。


「そんなんだから……奥さんと娘さんにも愛想尽かされるんですよッ!!」


 ガタン!!

 

 テーブルに思いっきり叩きつけられたトートバッグの鈍い音が室内に広がる。

 その後すぐに玄関から勢いよく外へ飛び出す音が聞こえてきた。


 ヒステリックを起こした女性は恐ろしいとよく言われるが、まさにその典型を目の当たりにしたような気分であった。


 洋助はやれやれといった表情で首を横に振ると「部下のコントロールは難しいね」と言って哲矢に笑顔を見せる。


「えっと、あの……」


 去り際の美羽子の暴言に対してどう反応すればいいかと困っていると、洋助はフォローするように言葉を付け足してくる。


「ああ、今の美羽子君の言葉は本当なんだよ。独り身が沁みついちゃってね。それより……これでよかったのかな?」


「……あ、いや。その……なんていうか、本当にありがとうございます!」


 哲矢はもう一度深くお辞儀をした。


「お礼を言わなきゃならないのは僕らの方だよ」


「えっ?」


 洋助は遠い目をしながら続けた。


「僕はね、哲矢君。この少年調査官制度の立ち上げに関わった一人でもあるんだ。近年の少年犯罪は動機の複雑化に伴って家庭裁判庁の調査官だけでは上手く把握することができなくなっていてね。いくら心理の専門的な知識を身につけたといっても所詮僕らは大人だから。やっぱり未成年の子たちの多感さに気づけないこともあるんだよ」


「それで、同世代の子供たちに事件を起こした少年と同じ環境に身を置いてもらって彼らの感想を元に事件の背景を読み解く、といった時代に適った制度を立ち上げることになったんだ。僕も微力ながらその手伝いをさせてもらってね」


「ちょうど1年前くらいかな? 少年調査官制度が試験的に導入されることになったんだ。ただ、まだ国でサポートする体制が完全に整っていないこともあって、都市部の少年事件から制度を導入することになったんだけど……。僕らはすぐに思い知らされたんだ。この制度がさまざまな問題を抱えているという現実に」

 

 そこで洋助は話を一度区切って天を仰いだ。


 その表情からはいかなる感情も読み取ることができない。

 ただ一つ哲矢に分かることがあるとすれば、彼がこれからとても誠実な話をしようとしているということであった。


「……少年調査官に選ばれた多くの子供たちに過度のストレス症状が出てしまってね。さっきも言ったけど、哲矢君が抱いたような葛藤は、実はごく当たり前のことなんだ。もし仮に僕が君たちと同じように、突然思春期の大事な時期に他人の人生を左右するような重荷を背負わされたとしたら……。多分、すぐに逃げ出していると思うんだ」


「少年調査官というのはそれほど過度なストレスを子供たちに与えるものなんだって、僕らは試験的に導入してから初めて気づいたんだ。けれど、現場を知らないお偉方はこの現状が分かっていなくてね。多額のお金を投じてこの制度を立ち上げた以上、易々と看板を下ろすことができないんだよ」


「だから、選ばれた子供たちにはなるべく無駄なストレスや不安を与えないようにしなきゃいけないんだ。もちろん、それを守るのは僕や美羽子君の役目だ。だから、哲矢君。君が過度のストレスを感じてしまっていたのだとすれば、それは……」


「いえ、違うんです。そうじゃなくて、俺が……」


「うん。それも分かっている。哲矢君は優しいからね。すべて自分の責任だって考えているんだろ? それに僕らに対して余計な心配を与えないようにもしている」


「…………」


「なら、せめてこれだけは言わせてくれ。どういう理由で君がそう決めたにせよ、もう一度事件と向き合いたいって言ってくれてありがとう。家裁を代表して感謝の意を表するよ」


「大袈裟ですよ。俺はただ自分勝手なだけで……」


「そう謙遜しないでくれ。君の決断は普通できるものじゃないんだから。それと、美羽子君が色々とすまない。あの態度については謝らなきゃいけない。僕らの立場としてあんな横暴な発言をすることは許されることじゃないんだ」


「でも一つだけ言い訳をさせてもらうと、彼女は今色々と仕事を抱えていてね。だから、突発的な事態に上手く対処できなくてキャパシティオーバーしてしまったんだと思う。大目に見てくれると嬉しいよ」


 今度は哲矢に代わって洋助が深々と頭を下げる。

 その誠実な彼の行動を責めることなど哲矢にできるはずもなかった。


「そんな……全然気にしてないです」


「そうか。ありがとう」


 洋助は再び笑みをパッと灯した。


 哲矢は彼に対する印象が自分の中でさらに変わっていることに気づく。

 こちらに関心が無いように見えた洋助であったが、実は自分のことをよく見てくれていたのかもしれない、と哲矢は思う。


 心はどこか晴れ晴れとした気持ちで満たされるのであった。

 

「……でも、本当にいいのかい? 家族や地元の学校は大丈夫? みんな心配してない?」


「それは大丈夫です。今の自分には事件と向き合うことの方がなによりも大切なんで」


「そうか……分かったよ。そこまで言うのなら、あと3日間。宝野学園に通って事件と真剣に向き合ってみてくれ」


「はい」


「ただ、覚えておいてほしいことが一つだけあるんだ。僕としても3日間の延長というのが引っ張れる限界のラインでね。だから、これから出す結論にはきちんとした責任を持ってもらいたいんだ。これが自分の意見なんだって堂々と言えるように」


「分かりました。今度こそちゃんと答えを出してみせます」


「うん。よろしくね」


 そう笑顔で口にした洋助はさっそく仕事に取りかかるようであった。

 

「それじゃ、僕はもう一度庁舎に顔を出してくるよ。今晩中に用意しておかなくちゃならない書類が色々とあるからね。首席にも連絡しないといけないし」


 この夜も遅い時間に家庭裁判庁へ戻るのだ。

 感謝しなければならないのはやはりこちらの方だ、と哲矢は思う。


「すみません、よろしくお願いします」


「別に哲矢君が謝ることじゃないよ。これは僕の仕事だからさ。それと美羽子君の様子も気になるから一緒に見てくるよ。多分、庁舎の休憩室にでも駆け込んだんだろうし」


「お手数をおかけします」


 洋助は手を振ると、いつの間にか現れたマーローと一緒に玄関へと向かった。


「…………」


 その姿を見送りながら、哲矢は自分の気持ちが昂っていることに気づく。

 このことを早く報告したい相手がいたからだ。


(メイ……)


 ずっとリビングにいた哲矢であったが、あれから彼女の姿を見ていない。

 2階の自室にいるのだろうか。

 だがそれにしては妙だ、と哲矢は思った。


 こちらの騒ぎは間違いなく2階へも伝わっていたはずだ。

 それにも拘わらず、メイが1階へ下りてくるような気配はまるでなかった。


 そんなことを考えていると、洋助がきょとんとした表情でリビングに戻ってくる。


「哲矢君。さっきは気づかなかったんだけど、メイ君は今外出中なのかい?」


「はい?」


「靴が無いんだ」


「そうなんですか? 俺も全然気づきませんでした」


 なるほどそういうことか、と哲矢は思った。

 姿を見せないと思ったら外出していたのだ。

 

「もうそろそろ未成年の子は外出できなくなる時間だからちょっと危ないね。哲矢君、悪いけど一度見てきてくれないか? 多分いつもの場所にいると思うから」


「わ、分かりましたっ……」


「くぉ~ん」


 マーローが気怠そうにひと吠えする。

 なんだか、しっかりしてくれよと呆れられているように思えた。


 洋助はその愛犬の頭を撫でると、今度こそ玄関から出て行ってしまう。


「待てよ。いつもの場所ってどこだ?」


 ふと安返事をしてしまったが、哲矢はメイが今どこにいるのか見当がついていなかった。

 しかし、すぐにそれが宿舎近くの小さな公園を指しているということに気がつく。

 

 どうやらあの公園はメイの定位置として洋助には認識されているようであった。

 けれど、それなら家庭裁判庁へ向かう前についでに声をかけてきてくれたらよかったのに、と哲矢は思う。


「……ったく。勘弁してくれ」


 そこまで考えて、哲矢は自分が担がれたことを悟る。

 洋助は何かを誤解しているようだ。


 だが、確かに哲矢が今一番会いたい相手は彼女であった。

 首を横に振って冷静になると、哲矢は部屋に戻ってジャケットを羽織ってから外へ出るのだった。

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