第253話 哲矢サイド-57
マーローの頭に触りながら、哲矢は大事なことを洋助に訊きそびれていたことを思い出す。
「そうだ、風祭さんっ! ここへ来る時、体育館の中の様子は見ましたかっ!?」
それは出会い頭に訊ねていてもおかしくない質問であった。
「え? えっと……」
洋助は哲矢の気迫に押されるように一瞬口ごもるがすぐに何かを悟ったのか、冷静に切り返してくる。
「一瞬だけど見えたよ。なんか妙な感じだったね」
「妙な感じ……ですか」
実際に今から走って向かえば体育館の入口はすぐであったが、足を踏み入れるよりも前に気持ちの整理をつけておきたかったというのが哲矢の本音であった。
怖かったのだ。
結果的に予定していた応援演説の時間に哲矢たちは間に合っていない。
次に控える花の演説も中止になっている可能性は十分に考えられた。
それは当然、計画の失敗を意味している。
だから、哲矢はあえて洋助に訊くという回りくどい道を選んだ。
洋助も薄々気づいたかもしれない、と哲矢は思う。
昨日、メイと一緒に宿舎を抜け出し、夜の宝野学園へ忍び込んだのだ。
こちら側に何か目的があると彼が理解していないはずがなかった。
本来ならばこうして自然に会話をしていること自体が不自然なのである。
けれど、洋助は哲矢に何か訊ねてくるようなことはなかった。
「そうだな……」
おそらく、哲矢の思いが分かっているからこそ、そう前置きをしてから洋助は慎重に言葉を重ねる。
彼の話をまとめるとこうであった。
なんでも一瞬ドアの隙間から見えたステージには、派手な化粧をした太った男子生徒がアコースティックギターを構えていて、何やら彼の歌で会場全体が盛り上がっているように見えたのだという。
「化粧をしたアコースティックギターの男子ですか……?」
「うん。文化祭かなにかの出しものってわけじゃないよね?」
「…………」
なんということだろうか。
哲矢は思わず嗚咽を漏らし、その場でうずくまってしまう。
「ど、どうしたの……?」
心配そうな声を上げる洋助から顔を背け、哲矢は瞳に薄い涙の膜を浮かべた。
「……ぃ、いえ……。なんでもないん、です……」
そう言って誤魔化すものの、熱く込み上げてくる感情は収まらない。
話を聞いた瞬間に哲矢には分かった。
その男子生徒の正体が一兵であることが。
(稲村ヶ崎……)
多分、一兵は間に合わなかった利奈の代わりとしてステージに上がってくれたのだろう、と哲矢は思う。
どのような経緯があってそうしてくれたのかは分からなかったが、結果はどうあれそれはまだ哲矢たちの計画が終わっていないことを意味していた。
そんなことを考えていると――。
「……ッんぅ、っ……」
突如、利奈の口から声が漏れ聞こえる。
「つ……鶴間っ! 気づいたか!?」
思わず利奈に近づこうとする哲矢であったが、それを洋助が冷静に遮る。
「……ぅうッ、ぅ……」
彼女は短い呻きを繰り返しながら震えていた。
そのか弱い姿を見て、哲矢はハッとする。
つい今しがたまで利奈がどういう目に遭っていたか、それを忘れるほど哲矢は愚かではなかった。
きっと、想像もつかないくらい怖い思いをしたに違いないのだ。
洋助もそれが分かっているからこそ、無理に利奈に声をかけようとしない。
彼女が落ち着くのをじっと待っている。
マーローも吠えることなく、心配そうに状況を見守っているようであった。
やがて、哲矢に対して洋助が静かに目で合図を送る。
その目は〝行って来い〟と言っているように哲矢には見えた。
哲矢がどこに行きたいと思っているのか、彼にはお見通しのようだ。
「…………」
利奈に対して言わなければならない言葉がいくつも浮かんでくるが、哲矢はそれを寸前のところで抑える。
下唇を薄く噛んで感情を殺すと、洋助に一礼をしてから哲矢は利奈に背中を向け、その場から立ち去ろうとする。
しかし――。
「……ま、って……。かん、ない……君……」
震え混じりのか細い声が聞こえてきたことにより哲矢の足はピタッと止まってしまう。
「ちょっと君っ!」
振り返れば、利奈は洋助に制止されながらも哲矢の後を必死で追おうとしていた。
これには哲矢も動揺を隠せない。
「……わた、しも……一緒に……」
ふらふらとした足取りで、彼女はメガネの奥から真っ直ぐな視線を哲矢へと向ける。
「……ッ、鶴間……」
だが、それを哲矢は正面から受け止めることができなかった。
利奈へと踏み出しかけた足は震え、寸前のところで固まってしまう。
(ダメだ……。酷い目に遭わせたばかりじゃないか!)
それを哲矢はすべて自分の責任だと感じていた。
少し考えれば分かったはずなのだ。
あの状況で一人利奈を送り出すことがどれほど危険な行為であったかを。
けれど、続く彼女の言葉もまた哲矢と同じく自身を責め立てるものであった。
「置いて、いかないで……。これ以上……こんな思いで、いるのは……ヤなの……」
洋助の腕に支えられながら利奈は瞳に大粒の涙を浮かべ、まるで懺悔するように言葉を絞り出す。
「……ここで、置いていかれたら……私は……」
その先に続く言葉を哲矢は瞬時に理解する。
やはり、彼女は自覚しているのだ。
哲矢にとってそうであるように、利奈にとってもまた、この機会を逃すことは一生後悔してもし切れないほど大切なことなのである。
だから、尚更哲矢の口からは〝一緒に行こう〟のひと言が出てこなかった。
その台詞の重さを十分に理解できた今だからこそ、改めてそれを口にするのが怖いのだ。
「…………」
重苦しい沈黙が辺りを包む。
哲矢と利奈は、お互いの目を見つめ合ったまま次の一歩を踏み出せずにいた。
それを間近で見ていた洋助は何か言いたげに口を開こうとする。
だが、大人の彼をもってしても、今の二人の間に入っていくことは簡単なことではないようであった。
ただ、時間だけが無常に流れていく。
哲矢も利奈も、相手の思いを深くまで読み過ぎてしまっていた。
だからだろうか……。
「ワオオオオオンッ!!」
マーローが鋭く尻尾を立て、警戒するように高く吠えるその声に二人の反応は遅れてしまう。
真っ先に気づいたのは洋助だ。
彼は反射的に大声を上げる。
「哲矢君っ!!」
また、こんなタイミングで五時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
それら二つの出来ごとがこの不自然な結界を解くトリガーとなった。
洋助は利奈の両肩を掴んで彼女を前に差し出すと、もう一度哲矢に対して声を上げる。
「彼女を連れて行くんだ!」
洋助としても、これが果たして正しい行為なのかは分からないことだろう。
しかし、それでも彼は利奈の言葉に強い感銘を受けたようだ。
その時――。
(……っ!)
哲矢は、洋助に背中を支えられた利奈と再度目が合う。
彼女は湖畔に映る半月のように穏やかな視線を哲矢に向けていた。
それで哲矢はハッと我に返る。
こんな怖い目に遭ってもなお利奈はついて行くということを選んだ。
ステージに上がることを選んだのだ。
それは、今後バッシングも受ける覚悟で彼女が決意したということを表していた。
今の利奈はどんなことも受け入れる覚悟ができているのである。
それを阻むことなど哲矢にできるはずもなかった。
「追手が迫って来てる! さあ早く!!」
洋助が指さす先には複数の人影が確認できた。
おそらく、先ほど逃れた警備員の男が増援を呼びに戻ってきたのだろう。
遠くから聞こえる足音の中に仇討ちに燃える罵声がいくつも含まれていることに三人は気づき、周囲の空気は一気に張り詰めていく。
この状況がどういうものか。
それが理解できないほど哲矢は子供ではなかった。
洋助は自らの犠牲と引き換えに時間を稼ごうとしてくれているのだ。
(行かなきゃっ……!)
足音が間近に迫って来ているということが実感できる段階になってようやく哲矢は利奈を連れてここから立ち去る決意を固める。
最後のひと押しをするように、洋助が「後のことは任せて! 行くんだ!」と口にすると、マーローも飛び跳ねて一緒になって出発を促す。
哲矢は彼らに対して短く頭を下げると、力強く利奈の手を取る。
「行こう! 鶴間!」
「うんっ……」
自らを奮い立たせるように小さく頷く利奈の手を引いて哲矢はその場から駆け出す。
もう失敗は許されない。
その決意を胸に哲矢は今度こそ体育館を目指す。
そこはすでに目と鼻の先にあった。




