第250話 哲矢サイド-54
その一瞬、哲矢は微かに花の呼び声を聞いた気がした。
(は……な……)
混沌の淵に取り込まれつつあった意識は、寸前のところで現実の檻へと帰ることに成功する。
視界は徐々に開け、世界に彩りが戻る。
「……ぐ、がぁっ……」
途端に激痛が走る。
体の節々が痛むのだ。
だが、哲矢を痛めつけるのはそれだけではなかった。
精神的なショックが哲矢に襲いかかる。
「……づっ、ぁあ……な、これッ……!?」
目の前の光景に哲矢は絶句した。
そこには、木にロープで吊るされている利奈の姿があったのだ。
彼女は、後ろに回した両手を固い縄で縛られ、高い枝に括りつけられていた。
体は宙に浮く形で利奈はぐったりと目を瞑っている。
汚れの目立つブレザーやスカートの所々ははだけており、襟元のクリーム色のリボンはあらぬ方向へと曲がっていた。
それが哲矢を最大限に煽った。
「ぐぐ……ぞぉぉっ……鶴間ぁぁ……!!」
今すぐにでも助けたい気持ちでいっぱいであったが、自分も全身をぐるぐるとロープで巻かれているらしく、哲矢は砂利に膝をつけたまま身動きを取ることができない。
少しでも動くとロープが食い込んで、先ほど中井から受けた傷が疼くのだ。
「……ぜぇ、がぁっ……はぁ、はぁっ……」
警備員の男に竹刀で締め上げられた首元がひりひりと痛む。
しばらくは気を失いそうなほどの全身の痛みに耐えながら、利奈をどう助け出すか思案する哲矢であったが、その糸口は見つけられない。
声をかけても反応が返ってこないところから察するに、おそらく彼女は意識を失ってしまっているのだろう、と哲矢は思った。
ロープで吊るされ、血の気を失ったように青ざめたその表情はまるで死んでしまっているようにも見え、それが哲矢の不安を加速させる。
このままでは利奈の身が危ない。
そこでようやく哲矢は誰かに助けを求めるしかない状況であることを悟る。
眩しい春の日差しに目を細めながら周囲を探ると、ぼやけた視界の先に微かな人影があることを哲矢は確認する。
「だ、誰か……!」
すぐさま大きな声を上げて助けを求めようとする哲矢であったが――。
(……っ!!)
その人影が警備員の男たちであることに哲矢はすぐに気がつく。
彼らはここから少し離れた木の下で煙草を片手に何やら話を弾ませているようであった。
二人の生徒を拘束した功績について盛り上がっているのだろうか。
どちらにせよ、その卑しく下品に笑う姿は、宝野学園の安全を守る立場の者の顔には到底見えなかった。
まるで悪役そのものじゃないか、と哲矢は戦慄さえ覚える。
「くっ……」
そんな男たちの姿を遠目から黙って見つめることしかできないこの状況が哲矢にとって何よりも堪らなく悔しかった。
〝この一週間、学園で過ごしてきた日々は一体何だったのか〟と、無性に腹立たしく思えてくる。
大貴や社家の罪を公のもとに晒すという機会を失った今、哲矢は何者でもなかった。
このまま理不尽な学園の体質を見逃してしまえば、また同じ過ちが繰り返される可能性があった。
当然、その頃には、哲矢はこの場所にはいない。
しかし、それを「だったら俺には関係ない」と見捨てるほど哲矢は腐ってはいなかった。
ここでケリをつけなければこの先一生変われないのは哲矢としても同じなのだ。
(そう……。俺は分かっているはずだ)
親友の死と向き合うことができなかったあの頃と同じ過ちを繰り返すわけにはいかない、と哲矢は強く思う。
そんな風に思ったからだろうか。
「おいぃこらッ!! ロープ解けってふざけんなぁッ!!」
突如、無意識のうちにそんな罵声が哲矢の口を突いて出る。
それは風に乗り、遠くで煙草の煙をくゆらせていた男たちの元へ届いたようであった。
「――――」
「――――」
彼らは哲矢の声に気づくと、さほど驚く様子もなく顔を突き合わせながら何やら密談を始めたようであった。
それからすぐに結論が出たのだろう。
二人は一斉に哲矢たちの方を向くと、紫色の煙を吐き出しながらゆっくりと近づいてくる。
その表情の中に違和感があることに哲矢は気がついた。
(……っ?)
遠目から見てもはっきりと分かる。
彼らはなぜか親身な笑顔を向けて歩いてきていたのだ。
それがかえって不気味に感じられ、哲矢の本能は〝この場所にいてはいけない〟と警告を鳴らし始める。
だが、しかし――。
結局はどうすることもできず、男たちがやって来るのを待つ以外、哲矢にできる選択肢は残されていなかった。
やがて、彼らは利奈には目もくれず哲矢の近くまでやって来ると、見下ろして囲むような恰好を取る。
「……お、お前らっ……!」
つい恐怖心から無様に喚き散らしてしまう哲矢であったが、逆に警備員の男たちは静かに口元を上げるだけだった。
その対比がより一層哲矢の惨めさを際立たせる。
警備員の男たちは短くなった煙草をそれぞれひと吸いしてから地面に放ると、今度は自己弁護するように自らの体裁を取り繕い始める。
「悪いな、坊主。俺たちだってこんなことは本当はやりたくねぇんだよ」
「まあ、御大に目をつけられたのが運の尽きだったな。んははっ!」
「な、なに……?」
「つーわけだ。悪く思うなよ。俺たちだって仕事でこうしてるんだ。代理選が終わるまでそこで仲良くお寝んねしてな」
「ククッ、お似合いだぜ、クソガキッ」
「ちょっ……ま、待ってくれ……! せめて、鶴間だけでもッ……」
そう懇願してなんとか利奈の助けを乞う哲矢であったが、警備員の男たちは聞く耳を持たずに笑いながらその場から立ち去ってしまうのだった。
「……なんだよ、なんなんだよ、これっ……くそぉぉっッ……!!」
呻きは澄み切った青空に虚しく響く。
哲矢はただ叫び声を上げることしかできないのであった。




