第246話 哲矢サイド-53
室内運動施設場を飛び出た哲矢は、すぐに違和感に気づく。
(……?)
近くから短い悲鳴のようなものが聞こえた気がしたのだ。
耳をさらに澄ませる。
(間違いない! 誰かが叫んでるッ!)
声の主は〝離してッ!〟と必死で繰り返しているようであった。
その聞き覚えのある少女の声に、哲矢の背筋にゾクッと冷たいものが走る。
(まさか……)
気づけば、哲矢は無意識のうちにその声のする方へと駆け出していた。
◇
室内運動施設場を半周する形で哲矢は体育館の裏へ出る。
(――っ!)
そこで哲矢は最悪の場面を目撃することとなる。
言葉を失うとはまさにこのことであった。
「……鶴間ッ!!」
なんと目の前で利奈が別の警備員の男に体を押さえつけられ、苦しそうにもがいていたのだ。
「ぅッ……」
彼女は今度は声にはならない呻きを辛そうに上げている。
そのリアリティの欠如した光景に、哲矢は今にも眩暈を起こして倒れてしまいそうであった。
溜まっていた疲れが一気に噴き出してきたのかもしれない。
信じたくないという思いが自身の中で膨らみ、視界は霧がかかったようにボヤけてしまっている。
確かに、警備員がもう一人いて園内を巡回しているかもしれないという可能性は少し考えれば分かることであった。
それを失念していた哲矢の罪は重い。
(なにが囮になって時間を稼ぐだ……)
哲矢は自らの不甲斐なさを呪った。
だが、そう嘆いていても状況は変わらない。
これが現実なのだ。
目を逸らして無視することなどできない。
実際に今目の前で利奈は別の警備員の男に拘束されてしまっているのだから。
(……ッ!?)
その時、利奈の右脚から毒々しいほどに真っ赤な血がだらっと垂れていることに哲矢は気がつく。
悲痛なその姿を見て、哲矢は本能的に大声を上げていた。
「……な、なんてことをッ……!!」
そう短く叫びながら、とっさに男に飛びかかろうとする哲矢であったが――。
「動くな」
キラリと光る小型ナイフの刃が目に入り、哲矢は寸前のところで動きを止めてしまう。
警備員の男はそれを利奈の首筋まで近づけると、冷徹な口調でこう続けた。
「いいか、それ以上、近づこうとすればこの女が痛い目に遭うぞ」
「くっ!」
その瞬間、男の剛腕に首を絞めつけられている利奈と哲矢は目が合う。
命の懸った危機的状況にあるにもかかわらず、彼女は哲矢に向けてゆっくりと首を横に振る。
きっと、捕まってしまったことを申し訳なく感じているのだろう。
(鶴間っ……)
自分の情けなさが浮き彫りになるようで、哲矢はそれ以上利奈を直視することができなかった。
(……考えろ、なにか助ける方法があるはずだ……)
頭の中ではそう必死に利奈を救う手立てを捻出しようとする哲矢であったが、こんな時に限って体育館の様子が気になってしまう。
この場所に彼女がまだいるということは、応援演説の時間には間に合わなかったということを意味していた。
ここからでは体育館の中の状況も窺い知ることができない。
(くそ!)
逸る気持ちだけが空回りをして、窮地に立たされた哲矢の思考はショート寸前のところまできていた。
だからだろうか。
正常ならば見過ごすはずがない違和感に哲矢は気づくのが遅れる。
(……っ?)
ふと一瞬、目の前に何か影のようなものが降りるのが哲矢には分かった。
枝か何かが落ちてきたのかと、間抜けにそんなことを哲矢が思った次の瞬間――。
「ッがあぁぁ!?」
喉元に大きな衝撃が加わり、思わず哲矢は呻き声を上げてしまう。
あまりにも突然の出来ごとであったため、哲矢は半ばパニック状態となり、ジタバタと暴れ回りながら首元にかかる圧力に対して必死の抵抗を試みる。
「うぐっッ……!」
だが、その圧迫物を手で掴んで引き剥がそうとしても圧が弱まることはない。
その時になって初めて、哲矢は、悪意ある何者かが後ろから自分の首を絞めているという現実に気づく。
反射的に防衛本能が働いたためか、〝殺される!〟という恐怖が一気に哲矢の中から沸き起こってくる。
体は自然と仰け反り、ただ無様に抵抗する以外哲矢にできる選択は残されていなかった。
「大人しくしろッ! クソガキッーー!!」
後ろからはそんな声と共に荒々しい鼻息が聞こえてくる。
それが先ほど剣道場に閉じ込めたはずの警備員で、その男が竹刀を使って自分の首を絞めているという現実に気が回らないほど哲矢の意識は薄くなりつつあった。
「……っ、ぐガあァぁッ!?」
絶叫しながら竹刀の圧力から何度も逃れようと抵抗する哲矢であったが、男の逞しい腕力に捻じ伏せられ、上手いこと身動きを取ることができない。
鍛え抜かれたその強靭な肉体を前にしては哲矢の力は無力であった。
「ククッ……ガキがケンカ売るからこうなんだよッ!!」
消えかかる意識の中で利奈もまた別の警備員の男に押さえつけられ、大声で叫んでいる姿を哲矢は視界に収めるが、それはただのリアリティの欠如した情景としか見ることができずにいた。
こんな時でも脳裏に響くのはカチカチと鳴り響く腕時計の音だ。
(ごめん、花……約束、守れそうに、ないよ……)
そのことだけが哲矢の心残りであった。
零れた涙の一滴が地面に吸い込まれた瞬間、哲矢の意識は混沌の淵へと吸い込まれていくのだった。




