第245話 哲矢サイド-52 / 鬼ごっこ その2
「クソガキィィっ! 止まれやぁッーー!!」
警備員の男は先ほどから頻繁に威嚇を続けており、少しでも走るスピードを緩めれば捕まってしまうのは明らかであった。
その距離おそらく5メートルを切っていると哲矢は思う。
これが非常に切迫した状況であるということには気づいていたが、哲矢はこれといった打開策を打ち出せぬまま、結局脚はプール場の方へと向いていた。
その場所で撒くことができなければ諦める。
酸欠の思考回路で哲矢が最後に下した決断がそれであった。
けれど、右手前方に見えてきた剣道場の入口を横切ろうとしたその時。
(――ッ!!)
パッと目に飛び込んできた情景を見て、哲矢は瞬時にあることを閃く。
まるで雷に打たれたような衝撃があった。
そして、勝利へのプロセスが瞬く間に上書きされていく。
〝危険だ〟とする警告と〝これしかない〟と叫ぶ根拠不在の自信が哲矢の頭の中で交錯する。
だが、すぐに結論は出された。
(これに賭けるしかない……!)
それは一か八かの博打。
自らの直感だけを頼りに、哲矢は向かう先を剣道場へと急遽変更する。
入口に貼られていた〝張り紙〟を引き千切って中へと足を踏み入れると、哲矢はそのままのスピードを維持して直進する。
「ガキィッ、そこは行き止まりだぞおぉッーー!!」
この先には抜け道はなく袋小路であることを知っているのだろう。
観念したと思ったのか、警備員は嬉々とした声を後ろから上げる。
しかし、哲矢はそれに取り合うことはせず、道場内に上履きのまま上がり込み、逃げられる範囲の限界まで逃げ続けた。
やがて、行き止まりの壁が見えてくると、素早く反転してそこに背中を預け、哲矢はようやく警備員の方を振り返る。
「――んぁッ!?」
ふいに対峙する形となったことで、男は何か罠があるのではないかと感じ取ったのか。
減速しながら立ち止まると、そこから距離を徐々に詰めていく作戦に切り替えたようであった。
肩で息をしながら近づいてくる警備員との間合いが狭まっていく。
その差は3メートルもない。
少しでも踏み込まれたら、捕まってしまうような至近距離であった。
「……ッ、観念しろぉッ……!!」
男が恨み言のような声を上げる。
目深に被った帽子の下から覗く目は、達成感に満たされたような歪な半月型をしているのであった。
ほんの数秒間、静寂が辺りを包み込む。
警備員の男は追い詰めた獲物を取り逃がさないように、一歩一歩慎重に間合いを詰めて来ていた。
そして、密かに隠し持っていた竹刀を取り出すとそれを天高く掲げてみせる。
おそらく、道場の入口に置いてあった竹刀入れの中から一本引き抜いてきたのだろう。
キラリと光る先端は、まるで相手に致命的な傷を負わせることを想定して作られたように鋭利であった。
(……っ)
哲矢は壁に背中を押しつけながら、ゆっくりと横に移動を試みる。
自然と警備員の歩調も哲矢の行動に釣られる。
だが、こんなことをいつまでも許すほど男は悠長に構えてはいないようであった。
「さぁ! 大人しくこっちへ来いッ!」
バンッ!!
鋭く振り下ろした竹刀が道場の床を叩く。
時を止めるには十分過ぎるほどの緊張感が二人の間に流れる。
けれど、警備員の男はそう声を荒げて威嚇を続けるも、なぜか哲矢の懐に飛び込んでこようとはしない。
これが罠なのではないかと、まだ疑っているのかもしれない。
(…………)
額から流れ落ちる大粒の汗を拭いながら、哲矢は少しずつ横に移動を続ける。
ふと、出窓からの光に反射して輝く片面側の床が視界に入り、哲矢はその方に目を落とす。
その仕草を完敗の合図と思ったのか。
男は哲矢を見て、やはり何をする気力も残されていないと判断したのだろう。
最後の忠告とばかりに竹刀を目一杯振りかざす。
ここで終わりにしてやる……。
男としてはそういうつもりだったに違いない。
汗だくの体で荒い呼吸を繰り返しながら、哲矢はじっとその時を待ち続ける。
やがて――。
その瞬間は訪れた。
「ぐおおぉぉぉぉッーー!!」
頭上に竹刀を大きく掲げた男は、そのまま哲矢目がけて猛突進してくる。
もし、これがアクション映画の決闘の場面なら、観客の誰もが〝やられるっ!〟と感じたに違いない。
しかし、哲矢には分かっていた。
警備員のこの行動は勝利へのトリガーであると。
ぴかぴかに輝く片面側の床に哲矢は飛び込む。
釣られて男もその方向へ足を踏み込むのだったが――。
「ッなっ!?」
次の瞬間、男は間抜けな声を上げながら仰け反って派手に横転してしまう。
自分の身に何が起こったのか、おそらくそれすらも分からないまま、警備員は床に頭を強くぶつけていた。
キュッキュッ、と。
上履きのゴムが擦れる音を確かめながら、哲矢は光る床を蹴り上げて元来た道を走って戻っていく。
「……ッ、ひ、卑怯だぞぉッ……!!」
後ろの方から何か叫ぶ男の声が聞こえてくるが当然哲矢はそれには取り合わない。
何度も横転を繰り返しているのだろう。
ドスンッ、バタンッという鈍い音を遠くで聞きながら、哲矢の顔からは自然と笑みが零れる。
すべては計算した通りの結果であった。
剣道場から出ると、哲矢はくしゃくしゃに丸めた張り紙をブレザーのポケットから取り出す。
そこには黒いマジックペンで『片面側ワックス塗装中』と書かれていた。
小学生の頃、習いごとの剣道をしていた際、道場の床で足を何度も滑らせた経験のある哲矢は、入口に貼られたその紙を目にして今回の奇策を瞬時に思いついたというわけであった。
裸足でも滑る道場の床にワックス塗りたてのまま革靴で飛び込んだらどうなるか。
結果は火を見るよりも明らかだ。
また、哲矢の確信をさらに深めたのが警備員としての職務の習慣であった。
普段、彼らは夜にしか巡回を行っていないため、昼の校舎や施設がどのような状態にあるか知る術を持たないのではないか、と哲矢は考えた。
先ほど道場に足を踏み入れた時、哲矢は片面側の床が異常なほど光に帯びていることに気づけたが、おそらく警備員の男はそれに気づけなかったのだろう。
これは、昼の剣道場を日ごろから巡回していれば、異なった状態にあることがすぐに分かるはずであったが、闇に包まれた室内運動施設場に見慣れた男にとっては、その些細な違いを見抜くことは難しかったに違いない、と哲矢は思う。
哲矢が滑り辛いゴム製の上履きを履いていたことや、警備員に剣道に関する知識が無かったことも幸いしたのだろう。
結果的に男は哲矢の罠にまんまとハマってしまったわけである。
「……さてと」
哲矢は入口の近くに置いてある竹刀入れの中から一本取り出すと、開け放たれていた剣道場の扉を閉めてその取っ手部分に竹刀を差し込む。
こうすることで剣道場は密室化され、しばらくの間、警備員の男はこの施設から抜け出すことができない。
腕時計に目をやれば、時刻は14時7分を指していた。
少し遅れてしまったかもしれないが、きっと今頃利奈は間に合ってステージに上がっているに違いないと哲矢は思う。
ここから体育館までは目と鼻の先にあった。
花の演説の時間も近い。
体はボロボロの状態にあったが、走れないというほどではなかった。
「急ぐぞっ……!」
自らを奮い立たせるようにそう気を吐くと、哲矢は体に鞭を打って室内運動施設場を後にするのだった。




