第243話 哲矢サイド-50
靴音はその後も迷うことなく哲矢たちの方へ向かって来ていた。
(マズいな……)
このままだと確実に鉢合せてしまう、と哲矢は思う。
その時になってようやく哲矢は自分の判断が大幅に遅れてしまったことに気がつく。
相手がこちらの姿を視界に収めるのは時間の問題と言えた。
「鶴間」
何かに弾かれたように哲矢は利奈の名前を呼ぶと、声を小さくして素早く指示を送る。
「(いいか? これから一人で渡り廊下まで戻るんだ。そこから外へ出られる。グラウンド方面に抜けて体育館を目指してくれ。中に入ったら近くに選管の人間がいるはずだから、声をかけて舞台袖まで案内してもらってほしい。遠回りだから少し遅れるかもしれないけど……。きっと、花が上手く誤魔化してくれてるはずだから)」
そこまで利奈に口を挟む余裕を与えることなく、哲矢は一気に捲し立てる。
当然、一方的に言われた側にしてみれば、簡単に理解できる話ではなかったのだろう。
すぐに言葉を返してくる。
「(それで、関内君はどうするの?)」
「(俺は囮なって時間を少しだけ稼ぐ。大丈夫っ、絶対に捕まったりしないから)」
「(だ、だけど……)」
そんなことをするよりもなぜ一緒になって逃げないのか、と利奈は言いたげに口ごもる。
もちろん、哲矢としてもできることならそうしたいと思っていた。
だが、結局、それは自滅の道に繋がることも哲矢は経験則として知っていた。
仮にこのままの状態で二人一緒に逃げたとすればこちらの足音は必ず相手に伝わることだろう、と哲矢は思う。
警備員といえどもそれなりの研修を受けて職に就いているはずだ。
囮になる者がいない限り、華奢でほっそりとした体つきの利奈が逃げ切ることは難しいに違いなかった。
(大事なのは、鶴間が体育館まで無事に辿り着くことだ)
哲矢は目的を再認識する。
だから、哲矢はあえてキツい口調を使って利奈に発破をかける。
「(いいから。このままだと二人とも見つかっちまう。俺も必ず後から追いかける。だから、行くんだ!)」
「っ……」
利奈は何か言いたそうな目を哲矢に向けるも、この状況が1秒1秒を争う緊迫した場面であるということを瞬時に理解したのだろう。
最後には「……絶対に無事でいて」という言葉を残し、駆け足で来た道を戻って行くのであった。
そんな利奈の後ろ姿を見送りながら、哲矢は昨夜の出来ごとを思い出していた。
「ふふっ……」
奇しくも昨日とは逆の立場にいることに気づき、突然、妙な可笑しさが込み上げてくる。
ひょっとすると、俺は罪悪感を清算したかっただけなのかもしれないな、と哲矢は職務棟の天井を見上げながら思う。
その時、ふとズボンの裏ポケットに違和感があることに哲矢は気づく。
手を触れてみれば、そこには萎れたままの原稿が差し込まれていた。
渡し忘れてしまった……と哲矢は思うも、もはやこれが今の利奈には必要のない物であることは、決意に満ち溢れた彼女の表情を見れば明らかであった。
(なんとか間に合ってくれ)
そう心の中で呟くと、哲矢は迫りつつある危機と対峙する覚悟を決めるのだった。
「…………」
無人の廊下は、音楽ホールのような役割を果たしていた。
今、少しでも床を鳴らせば、遠くの方までその音が響くのは明らかだ。
それを承知の上で利奈を送り出したのだ、と哲矢は思う。
当然、相手はすぐに駆け出す利奈の足音に気づいたようだ。
コツコツと周期的なリズムを保っていた靴音は、廊下の反響に反応するかのようにピタッと止まってしまう。
(……来るっ!)
哲矢がそう気持ちを固めた次の瞬間――。
こちらへ猛突進してくる男の姿を哲矢ははっきりと視界に収めた。
相手はやはり警備員だったのだ。
「おーい! こっちだ、おっさんっ~!!」
そこで哲矢は、わざと大きな声を出して相手の気を引くような台詞を口にする。
ここで自分の存在をアピールすることが何よりも重要であった。
距離はまだ50メートルほど離れている。
哲矢は振り向いて利奈の行方を確認すると、彼女はちょうど渡り廊下のドアを開けようとしているところでまだ視認できる範囲にいた。
(……くっ)
もう少しだけ警備員の注意をこちらへ向けて時間を稼ぐ必要があった。
声も上げずにものすごい勢いで突進をしてくる警備員の姿は、遠目から見てもアメフト選手のように強靭な体格をしているのが分かった。
相手は革靴のようだがそのスピードは速い。
その間合いが30メートルを切ろうかというところで、後方からドアを開ける音が微かに聞こえてくる。
おそらく、渡り廊下に入ったのだろう。
(これだけ距離があれば鶴間は逃げ切れるはずっ……!)
コンマ数秒の世界で哲矢は神経を集中させて駆け出すタイミングを整える。
昔から短距離走は得意ではあったが、中井から受けた傷が影響して全力で走れないことは先ほどの短い駆け足の中で証明されていた。
今でもその傷は哲矢の体力をじわじわと奪っていた。
それと比例するように、緊張感からか噴き出す汗の量が尋常ではなくなってきている。
本来ならば、こうして立っているだけでも眩暈を起こして倒れそうなほどなのだ。
己を奮い立たせて、なんとか気を張っているというのが哲矢の正直なところであった。
だが、哲矢はそれをハンディキャップとは感じていなかった。
相手は革靴なのだ、と自身に言い聞かせる。
不利は双方にあると言えた。
やがて、その距離が20メートルほどになると、男の輪郭がはっきりと浮き彫りになる。
それを見て哲矢が真っ先に気づいたことは、相手は先ほど口にしたような中年の男ではないということであった。
むしろ、かなり若い。
警備服を脱げば、大学生のアメフト選手と言っても遜色ないほどであった。
「――――!!」
鬼気迫る勢いでこちらへ向かってくる男の形相は、未成年の者へ向けるそれとは一線を画していた。
まるで、凶悪犯を捕まえるために命がけで挑んできているかのような、そんな緊迫感に満ちた表情を浮かべていたのだ。
最後にもう一度だけ大きく手を挙げて男の注意を向けると、哲矢はそこでようやくトップギアでスタートを切る。
その瞬間、脇腹に激痛が走るもそれを無視して猛進しなければならないほど警備員の男との距離は縮まっていた。
その差は約10メートルといったところだろうか。
一瞬でも気を許せば捕まってしまうような距離である。
あとは、哲矢がどこで相手を撒けるかに懸っていた。




