第242話 哲矢サイド-49
哲矢は利奈と一緒に職務棟の廊下を全速力で走っていた。
中井から受けた傷の影響もあって体は鉛のように重かったが、哲矢はそれでも懸命に足を前に出し続けた。
目下の気がかりはこの先職員室の前を横切らなければならないことだったが、それさえ越えてしまえばあとは直進して正面玄関から体育館を目指すだけだ、と哲矢は自身を奮い立たせる。
ふと、脳裏に花の顔が浮かぶ。
1秒を争うこの大事な時にこの大幅な遅刻は彼女の動揺を誘うには十分であるに違いなかった。
全身に走る痛みを堪えて、廊下を蹴り上げる足も自然と速まる。
そんな風に走っていると、哲矢は利奈の手を引いているということをつい忘れてしまっていた。
だから、急に利奈がブレーキをかけて立ち止まると、哲矢は強力な磁場に引き寄せられるように傾けた重心とは逆の方向へ思いっきり引っ張られてしまう。
「――ッはぁ!? っ、お、おいッ!?」
彼女は怯える子供のような目をしてその場で首を横に振る。
口元は僅かばかり震えていた。
「……っ、どうしたんだよっ……!」
哲矢がそう訊ねても利奈の反応は変わらない。
彼女は哲矢の後ろに視線を向けたままじっと固まってしまっていた。
すると、その瞬間。
「っっ!」
後方からリノリウムの床をコツコツと鳴らす音が聞こえてくることに哲矢は気がつく。
背筋にひんやりとしたものが駆け抜けるのが哲矢には分かった。
誰かがこちらへ歩いて来ているのだ。
この時間は皆体育館にいるはずなのになぜ……と、哲矢の警戒心は高まる。
冷静になれば、用のあった教師が一度職員室まで戻ってきたと考えることができたが、今の哲矢はそこまで思考を回す余裕を持ち合わせていなかった。
(ま、まさかッ……)
社家がこちらへ向かって来ているのではないか。
どういうわけか、根拠のないそんな考えが哲矢に押し寄せてくる。
華音や中井の様子が気になって体育館を脱け出してきたという可能性が十分に考えられたのだ。
おそらく、利奈も同じようなことを思ったのだろう。
先ほどから小刻みに肩を震わせているのは〝社家に咎められるかもしれない〟という恐怖心から来るもので間違いなさそうであった。
だが、すぐに哲矢は冷静に立ち返る。
社家なら真っ先に教室棟へ向かうのではないか、と。
わざわざ職務棟を通らなくとも、体育館からならば直接教室棟へ向かった方が早い。
そもそも、社家は自らの手を汚したくなくて華音や中井をA組の教室へ向かわせたのだ。
姑息で慎重なはずの彼が他の者に見られるかもしれないそんな不審な行動を取るとは思えなかった。
それに……と、哲矢の頭はさらに冴える。
靴音は教師が鳴らすそれとはどこか違って聞こえたのだ。
彼らのほとんどは、サンダルやスニーカー、ナースシューズなどの動きやすい靴を履いている。
その場合、聞こえてくるはずの音はキュッキュッとした甲高い音のはずであった。
生徒は上履きのためここまで音が廊下に響くことはないだろう、と哲矢は冷静に分析を重ねる。
コツ、コツ、コツ、コツ、と――。
靴音は規則正しい反響を廊下に響かせながら確実に哲矢たちの元へ向かってきていた。
「…………」
「…………」
二人はまるで金縛りにでも遭ったかのようにその場から一歩も動けずにいる。
これ以上下手に行動を取れば、この静寂し切った空間では相手にすぐ音が伝わってしまうかもしれないという恐怖があったのである。
瞬きもせずに前方をじっと見つめている利奈からは〝こっちへ来ないでほしい〟という祈りにも似た思いが伝わってくる。
哲矢としてもそれは同じ気持ちであった。
(どうするっ……?)
中途半端に廊下の途中まで出て来てしまっていたため、これから先進むにしても元来た道を戻るにしても微妙であった。
かと言って、近くの生徒指導室や資料準備室には鍵がかかっているため中に入ることはできない。
〝どこか別のところへ行ってくれるはず〟という甘い期待と、〝見つかる前に逃げなきゃ……〟という危機感が頭の中でぶつかり合って哲矢の判断を鈍らせる。
先ほどから利奈は不安そうな眼差しをチラチラと哲矢へ向けていた。
その仕草を見て、ここで自分が判断を下さなければ彼女も身動きが取れないということに哲矢は今さらながら気がつく。
(なにか手を考えるんだ!)
頭をフルに回転させ、どれが最良の選択かを哲矢は思案する。
逆にここで一番やってはいけないことは、二人が同時に捕まることであった。
ステージに上がる決意をしてくれた利奈の意思を無駄にするわけにはいかない。
そう気負う哲矢であったが……。
ふと、甦ったデジャヴが哲矢の心を揺り動かす。
何かざわざわと胸の内をくすぐる感覚があった。
「あっ……」
そして、哲矢はそれと同時に声を上げる。
自分が何に対して既視感を抱いていたのかに気づいたのだ。
それはつい半日前の出来ごと。
夜の校舎であるものをやり過ごすために無意識のうちに耳を澄ませていた。
(……警備員っ……!)
それが間近に迫る靴音の正体で間違いない、と哲矢は思う。
だが、一つの謎が解けると同時に新たな謎が浮上してくる。
(でも、なんで……)
真っ先に違和感を抱いたのは、昼間に警備員が巡回をしているという事実であった。
普段、彼らは学園がすべて閉まってから仕事を始めるはずである。
昨夜、忍び込んだ者がいたため、昼も巡回をさせているという学園側の思惑も分からなくはなかったが、それにしてもやることが絶妙過ぎると哲矢は思った。
メイはすでに捕まっているのだ。
それに昼の学園には誰かしらの姿がある。
本来ならば、ここまで用意周到に警備員を配置する必要はない。
しかし――。
ゆっくりと迫りつつあるその靴音に注意を払いながら、哲矢はどこか作為的なものを感じないわけにはいかなかった。
こんなことをさせる人物に心当たりは一つしかない。
(社家だ……あいつが裏で動いてるんだ)
彼の差し金で警備員が配置された。
それは、十分に考えられる可能性であった。




