第238話 哲矢サイド-46 / 利奈の過去 その4
意識を戻す頃には、利奈は生徒会室の隅の方でプリントの片づけの続きをしていた。
今日は生徒会のミーティングが開かれたのだ。
何のために……?
それは、怪我で宝野学園を休んでいる麻唯のためであった。
生徒会長不在の穴を埋めるために会議は開かれたのだ。
(……そう。藤野さんのため……)
利奈は自己を正当化するように何度も頷くと、ふと窓の外に目を向ける。
そこには、深い血の色で支配された世界がどこまでも無限に広がっていた。
そのガラス越しに、利奈は怪物と契約を交わしてしまった己の姿を目撃する。
罪悪感と少しばかりの優越感。
自分の都合のいいように解釈を捻じ曲げている自覚はもちろんあった。
だが、だからと言ってそれを今さら修正するには利奈の思考は汚染され過ぎてしまっていた。
怪物と契約を結ぶモノもまた怪物以外あり得ないということに、利奈が気づくまでそこから暫くの時間が必要であった。
◇
そのようにして、利奈の新しい生活には常に社家の影が付き纏った。
利奈はほとんど毎日何らかの報告を彼から要求されていた。
過剰にも思える反応ではあったが、社家の読みはあながち間違っていなかったことに利奈は気づくことになる。
将人の起こした事件について、かなりの頻度で大貴やその悪友に関する噂話を耳にする機会が増えたのだ。
その内容は、被害に遭った大貴たちグループのメンバー数名が将人に対して大掛かりな復讐を計画しているといったものから、実は黒幕は大貴で彼が教師たちを利用して自分の犯行を隠蔽させたといったものまで多岐に渡り、そのどれも脚色が加えられているように利奈の耳には聞こえた。
利奈は丁寧にも、教室や廊下で耳にしたその噂一つ一つを社家へと報告し、次第に二人の関係は歪なものへと変わっていく。
校長や清川からも一目置かれる存在の社家は、普段は主幹教諭として一般の教師らを仕切る立場にあった。
そのため、かなり広い範囲で顔が利く。
幾人かの教師は社家と利奈の関係について気づいているようであったが、それを表立って口にする者は現れなかった。
社家と接するたびに、利奈は自分の存在が霧の中へ消えていく感覚を抱いていた。
「大丈夫、安心するんだ。すべて上手くいってる。君はよくやってくれてるから」
「……はい」
髪に触れられながら猫なで声でそう言われると、利奈の思考は途端にフリーズしてしまう。
◇
宝野学園の教師は通常中高一貫教育を敷いているだけあって中等部一年から高等部三年までのその代を一貫して担任を受け持つことになっているが、どうやらこの場合でも社家だけは例外であるようであった。
校長からピンポイントである代を受け持つように言われることが多々あるらしく、今回は将人の事件が起きてしまったということもあって、社家は急遽利奈たちの代の担任となる。
「来月の新学年から君たちの代を受け持つことになった」
そんな知らせを社家から受けたのは、高二の終業式を数日後に控えた放課後のことであった。
そこで利奈はさらに驚くべき話を耳にする。
「あと、ちょっと厄介なことになってな。政府が裏で推し進めている制度の一環で、例の事件のためにどうやらうちのクラスに転入生が数名入ってくるらしいんだ」
「転入生……ですか?」
最初、利奈は社家が口にしている言葉の意味を理解できずにいた。
(事件のため? 一体なんで……)
だが、利奈が混乱している原因は、話の意味が分からないからだけではなかった。
ほんの些細であったが、社家の声から震えのようなものが感じられたのだ。
それもはっきりとした拒絶に近い響きが含まれていることを利奈は見逃さなかった。
〝目の前の男は何かに怯えている〟
そして、利奈のその読みは見事的中することになる。
この時になって初めて、社家は弱気とも取れる提案をしてくるのだった。
「……鶴間、君は私のクラスに来てくれないか?」
「え……」
「私の傍で引き続きサポートしてほしいんだ。なぁ、悪い話じゃないだろ? きっと君にもプラスになるはずだ」
「……でも……私は文系のB組で……」
「そこは気にしなくていい。私がなんとかしよう。君には新しいクラスで彼らの監視をしてほしいんだ」
社家は躊躇することなく〝監視〟という言葉を堂々と使用した。
この男が何か別の意思を持って行動していることにも薄々勘づいていた利奈であったが、それを問い質す勇気もなく、結局は大人しくその提案に従うことになるのであった。
けれど、そのことで利奈は悲観していなかった。
むしろ、楽だと感じたほどなのだ。
ほとんどの彼の要求は一方的なものばかりであったが、不思議と利奈はそれを居心地よく感じていた。
与えられる仕事。
命じられるままに行動する悦び。
それは、今まで〝一人で生きていく〟と気負ってきたからこその反動だったのかもしれない、と利奈は思う。
もしかすると、麻唯が近くからいなくなってしまったことで、自分の中にあった小さなプライドはどこかへ消えてしまったのかもしれなかった。
もはや、この頃の利奈は〝この男から目をつけられて不運だ〟とも感じなくなってしまっていた。
ゆっくりと壊されていく感覚だけがしこりのように利奈の胸中に残るのであった。
――――――――――――――
「…………」
そこまで一気に話し終えた利奈は、ショートカットの髪をくるくると弄りながら短く息を吐いて区切りをつける。
この間、哲矢はほとんど夢中で彼女の話に釘づけとなっていた。
何か言わなければならない場面なのは分かるのだが、様々な思いが去来して哲矢は上手く言葉にまとめることができずにいた。
誤魔化す意味も込めて腕時計に目を落とすと、信じられないことに彼女が話し始めてからほとんど時間が経っていないことが分かった。
そのことは、当の本人も強く感じているようで、言いたいことを短時間でまとめられたという達成感にも似た喜びを哲矢は彼女から感じ取る。
だが、同時に不安にもなっている様子であった。
利奈は暫しの間無言を貫き、スタッキングテーブルに腰をつけたまま生徒会室の床をじっと眺めていた。
もしかするとこちらの反応を恐れているのかもしれない、と哲矢はとっさに思った。
何を言われるか分からない恐怖。
利奈もまた、哲矢とは違った種類のプレッシャーを肌で強く感じているようであった。
だから、哲矢はなるべく相手に不安を与えないようにと冷静を装いながら、改めて彼女の話を整理しようと試みる。
内容はおおよそ理解できたつもりであった。
幼少期に抱えたコンプレックスが思春期の利奈を苦しめる原因となるも、麻唯との出会いがその呪縛を解放するきっかけとなる。
しかし、運命とは残酷なものである。
結局、拠りどころを失った利奈は打算的で強かな男に目をつけられてしまう。
確かに同情する部分はいくつかあった。
けれど、だからと言ってそれに免じてすべてを見過ごすことは哲矢はできなかった。
おそらく利奈は、哲矢たちにとって重要な機密情報をあろうことか一番の忌敵にリークしてしまっているのだ。
そのせいで今メイと花の身に危険が迫っているのだとすれば、哲矢はその行為を簡単に容認することはできなかった。
厳しく咎められて然るべきなのだ。
だが――。
そうとは分かっていても、一方が〝悪〟だと簡単に決めつけられるほど、哲矢は残酷になりきれなかった。
利奈が心に深い傷を負っていることは確かなのだ。
誰かがそれを癒さなければならない。
本来ならば、その役目は麻唯が負うものであったのかもしれないが、今は自分が代わりにそれを担うべきだ、と哲矢は自覚を強める。
「…………」
しかし、なぜか言葉はすぐに出てこない。
気軽に声をかけるには、哲矢は利奈のことを知り過ぎてしまっていた。
彼女を癒すのが自分の役目だとして、許容できないという思いも同時に抱えながら一体何と口にするのが正解なのか。
(分からない……)
最初にどう切り出せばいいのか、それすらも今の哲矢には超難問として映るのであった。




