第237話 哲矢サイド-45 / 利奈の過去 その3
〝彼〟は、他人のウィークポイントを探る能力に長けていた。
それは、ある種の才能と呼べるほどのものであった。
だから、経緯はどうあれ〝彼〟の目に弱った利奈の姿が留まったとしても、それは別に不思議なことではなかった。
(社家……)
その男の顔を思い浮かべると、利奈の心はふわふわと浮き上がり、自分でもコントロールできないくらい感情が揺れ動く。
もう自然とそうなるように躾られてしまったのだ。
もちろん、利奈には分かっていた。
どこが分水嶺であったかを。
最初に利奈が社家から声をかけられたのは、生徒会室で会議用のプリントの片づけをしていた時のことであった。
逢魔が時。
橙色の光を背に負いながら彼はひっそりと現れる。
まるで、この先訪れる未来を頭の中で悪意を持ってシュミレートするように、不気味な笑顔を携えながら利奈の元へ近づいてくるのだった。
「君。ちょっといいかな」
「……?」
「そう君だ。さあこちらへ」
「え……」
社家は私物にでも指図するような気安い口調で利奈を自分の傍まで引き寄せる。
それは、高圧的で傲慢に満ちた教員生活を送ってきた彼だからこそ為せる業であった。
―――――――――――――
その袋小路にも似た絶望的な気配を利奈は今でもありありと思い出すことができる。
あの時、彼の意思に従わず、はっきりと拒絶の態度を取っていれば、ここまで付け込まれることはなかったのではないか。
けれど、今さらそんなことを考えても後の祭りであった。
標的にされてしまった。
その事実だけが利奈の今ある現実に光り輝いているのであった。
その日は、一週間ぶりに生徒会全体のミーティングが開かれていた。
麻唯が転落してからの数日間、生徒会は役員だけの力では正常に機能しなくなってしまっていた。
それもそのはずで、生徒会は麻唯を中心にすべてが回っていたのだ。
だから、現状を見かねた教師らの協力を得て、元の軌道に戻すまで数日を要したというわけである。
利奈としては、その間は一切生徒会に顔を出していなかった。
行ったところで意味はないと思っていたのだ。
それは、自分は今まで麻唯のために必死で生徒会を頑張ってきたのだ、という事実を認めることでもあった。
正直、今すぐにでも辞めてしまいたい気分であった。
麻唯がいなければ、自分の存在価値はない。
しかし、そうは分かっていても、その頃の利奈は、すでに世間体や常識というものを気にする普通の生徒の感覚も身につけてしまっていたので、一週間ぶりにミーティングを行うという役員の声かけを断ることができなかった。
結局、地に足がついていないような状態のまま、利奈は運命のその会議に出席することになるのであった。
あのような事件が起きた後だからだろうか。
ミーティングには教師ら数名の顔があった。
おそらく社家はその中に紛れていたのだろう、と利奈は回想する。
もしかすると、ミーティングが始まって早々に、沈んだ顔を見抜かれてしまっていたのかもしれなかった。
―――――――――――――
プリントの束を置いて立ち上がると、利奈は吸い寄せられるようにして社家の元までゆっくりと近づいていく。
上履きの先端が男の靴に触れるのが分かった。
自分でもおかしなことをしている自覚はあったが、なぜか体は拒絶を見せない。
まるで、見えない糸か何かで操られているような気分だった。
(…………)
緊張で手が震えているのが利奈には分かる。
カーテンの隙間からは、橙色の光の粒が強烈に差し込み、利奈はなぜかそれを鮮血の色として感じた。
そこにあるのは恐怖。
本当はすぐにでも逃げ出してしまいたいという思いが利奈にはあった。
だが、社家を目の前にすると、利奈の体は不思議と言うことを聞かなくなってしまう。
あたかも筋書きに付き従うように。
利奈はゆっくりと顔を上げると、メガネ越しに上目遣いで見上げるような形で社家の話を聞くことになる。
「――これは学園のためなんだよ」
社家はかなり芝居がかった口調でそう声を張り上げる。
まるで、往年の舞台演出家が新米の劇団員に対して厳しく演技指導するかのように。
そのナルシシスティックな物言いから、話半分も理解できないと感じる利奈であったが、頭は彼の言おうとしていることをすんなりと受け入れているから不思議であった。
将人の起こした事件について、生徒の間で何かよからぬ噂が立っていないか調べているという社家は、特に重点的に大貴にまつわる噂について執拗になっているようであった。
「ちょっとしたことでもいいんだ。なにかあれば生徒会の務めとして、いち早く私に報告してほしい」
そんな声を遠くの方で聞きながら、利奈はふと思う。
なぜ、自分がこんな役目を負わなければならないのか、と。
生徒会の務めとして……?
では、なぜ先ほど全員がいる前でそれを言わなかったのだろうか。
不審な点は他にもあった。
確かに、大貴の父親がこの街の市長で、教師たちが彼に対して十分過ぎるほど気を遣っているというのは有名な話であった。
だが、それがどうして将人の事件と関係があるのか。
なぜ大貴の噂を気にするのか。
(犯人は生田って男子じゃないの?)
けれど――。
そのような疑問は、利奈にとっては些末な問題に過ぎなかった。
利奈が一番気になったのは、それすらも建前で彼が自分に近づいてきているという事実であった。
「代わりに君の内申点を上げよう。希望の進学先への推薦状も提出することにしよう」
その言葉を聞いた瞬間。
利奈は、背筋にビリッとした電流のようなものが流れるのを感じた。
闇の淵で手品をする奇術師のように、社家は不気味な笑顔でこう続ける。
「どうか我々に協力してほしい。君の助けが必要なんだ……。やってくれるね?」
彼は何の躊躇もなく、〝我々〟という言葉を口にした。
しかし、そんなものはどこにも存在しないことを利奈は見抜いていた。
(……違う、この人はなにか別の目的があって私に近づいて来てる……)
それは本来ならば恐怖して然るべき事態のはずであったが、なぜか利奈の足はその場から離れようとはしなかった。
怖いもの見たさの好奇心がそうさせたのか。
一つだけ確かなことは、この時、利奈は優しく微笑んだ姉たちの顔を思い浮かべていたということであった。
(……内申点……。推薦状……)
具体的な単語の羅列が頭の中でグルグルと駆け巡るのが分かる。
それがトリガーとなるように、利奈は目の前の不気味な笑顔に向けて、鋼よりも固い槍を躊躇することなく投げつけていた。
それは、利奈が長年密かに企み続けてきたコンプレックスからの解放の儀式であった。
バラバラに砕け散った親身な優しさを足元に並べて、この瞬間初めて利奈は今まで自身を苦しめ続けてきた呪いの正体に気づくことになる。
「……わ、私は……」
震え混じりに出るその声を利奈は他人事のように感じながら耳を澄ませる。
予感があった。
自分の意思を徐々に離れ、言葉だけが独り歩きしてしまうという予感が。
利奈にできることといえば、指揮下を離れたその言葉が次に何を語るのかを推し量ることくらいであった。
「ん? どうした?」
眩しそうに目を細める何者かの笑顔。
それは、すでに教師の皮を脱ぎつつ、また何か別のモノに姿を変えようとしていた。
「××××××」
「××××……」
「――――――」
「……××××××」
その先に交わされる会話はノイズのようなものが入り混じって利奈の耳には届かない。
確かなことは、平凡な日常を終わらせるには十分過ぎるほどの契約が〝怪物〟と成されてしまったということであった。
実際にそれは利奈が発した言葉だった。
だから、本来ならばそれは利奈自身の手によって止めなければならないものであった。
けれど、甘美な囁きが邪魔をして利奈はそれをすることができない。
〝私はようやく姉たちを越えられる〟
それは、幼い頃から胸の奥深くに沈めてきたはずの感情であったが、今はそれは丸裸であった。
掘り起こされてしまったのだ。
〝怪物〟の助けによって――。




