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桜色の街で ~ニュータウン漂流記~  作者: サイダーボウイ
第4部・立会演説会編 4月10日(水)
232/421

第232話 哲矢サイド-40

 暫しの間、息を整えた後、哲矢はブレザーの懐から汗でぐっしょりと湿ったスピーチ原稿を取り出して広げてみる。


 まだ辛うじて文字は読むことができたが、その存在意義が徐々に失われつつあることに哲矢は危機感を抱き始める。

 掛け時計に目を向けるまでもなく、時間は1秒1秒と残酷に時を奪い続けていた。


(くっ……)


 本当はこんなところで横になっている暇などないのだが、今は体が言うことを聞かないのだ。

 

 蛍光灯の明かりに原稿を透かしながら、哲矢はこれを渡すはずであった少女の顔を思い浮かべる。


「……鶴間……」


 なぜ、利奈は姿を見せないのか。

 ほんの少し前までは、華音たちが彼女を隠したものだと哲矢は考えていたが、本当にそうだったのか今は確信が持てずにいた。


 また先ほど美羽子の話を聞いた時はまだ頭が覚醒し切っていなかったため気づけなかったが、冷静に思い返してみれば、彼女に声をかけてきたメガネの女子生徒というのは利奈である可能性が高かった。


「どこに行ったんだよ」


 そう声に出してみて初めて、哲矢は利奈が自分の意思でこの場所に来なかったのではないか、という考えに思い当たる。 


(もしかして……)


 哲矢には一つだけ彼女の居場所に心当たりがあった。

 美羽子の話にあった通り、クラスメイトたちと共に体育館へは向かわず、教室棟の途中で別れたのだとすれば、その後に彼女が辿る先は限られているように思えた。


「そうだな、行ってみるか」


 なぜか、その根拠のない自信を哲矢は信じることに決める。

 ここで寝そべっていても何も解決しないことに気づいたからかもしれない。


 哲矢は一度額に手を当てる。

 どうやら出血は止まったようだ。


 あとは鈍い体をどう動かすかであったが……。


「ぐぉぉっ~~!!」


 腹筋に力を込めて上半身を起き上がらせると、あとは意外にも立ち上がることはそこまで苦ではなかった。

 どうやら哲矢は、10代男子の回復力を少し甘く見ていたらしい。

 痛む節々の誤魔化し方も会得しつつあった。


 ゆっくり一歩を踏み出すと、哲矢は少しずつ机や椅子が散らばった中を進んでいく。


(ごめんなさい藤沢さん。俺、やっぱり行きます……)


 美羽子の気遣いに応えられないことに罪悪感を抱きながらも、哲矢はその歩みを止めることはなかった。

 やがて、廊下の日差しが目に入る頃、哲矢は体の痛みを一時的に忘れることを覚え、本来の歩調を取り戻していた。




 ◇




 哲矢はあるドアの前で立ち止まっていた。


「…………」


 ドア上部に備えつけられたプレートに目を向けると、そこには【生徒会室】と書かれている。

 哲矢の予想が正しければ、利奈はこの中にいるはずであった。


 ひとまず、開くかどうか試しにドアノブを引いてみるが、内側からロックされているのかドアは開かない。

 次に哲矢はドアをノックして反応を見てみることにする。


 コンコン、コンコン。


 何度か軽く叩いてから今度は強めに数回叩いてみる。

 だが、それでも生徒会室からは物音一つ聞こえてこなかった。


(いないのか?)


 ひょっとすると、本当に利奈はこの中にいないのかもしれない。

 そうした不安が一瞬過るも、それでも哲矢は諦め切れず、声を上げて呼びかける。


「鶴間っ! そこにいるんだろ? 頼む、開けてくれ! どうしても話がしたいんだっ!」


 けれど、哲矢がそう叫んだところで部屋から声が返ってくる気配はなかった。

 文化棟1階の廊下に声だけが木霊し、あとにはしんとした静けさが残る。


「くそッ……」


 ようやく哲矢の諦めがついたのは、それから何度か叫んだ後のことであった。


 哲矢はドアに凭れかかるようにして座り込むと、スピーチ原稿をくしゃりと握って天井を見上げる。

 ここに利奈がいないとすると、哲矢にはもう見当が付かなかった。


 腕時計に目をやる。

 時刻は13時47分を指している。


 応援演説に彼女を間に合わせるとするならば、移動も含めてあと20分も残されていない計算だ。


(ヤバイな……)


 最悪の場合、利奈の代わりに自分が行くしかないことを哲矢は視野に入れ始める。

 途中で選挙管理委員会に止められる可能性もあったが、何もしないよりはマシに思えた。


「上は大丈夫かな……」


 そんなことを考えていると、突然、メイの安否や駆けつけた美羽子のその後が気になり始める。

 放送室はこの文化棟の3階に位置するため、今から登って駆けつけることもできた。


 頭の中で優先順位の序列がぐちゃぐちゃに絡み合っていくのが哲矢には分かる。


 しかし、今の哲矢には、それを一つずつ紐解いていく余力は残されていなかった。

 結局、どうすることもできず、その場で目を閉じて深く沈み込む哲矢であったが……。


 ガラガラガラ――。


「っっ!?」


 突如、鳴り響く物音に哲矢は体を反射的に跳び上がらせる。

 背中のドアが開いたのだ。


 恐る恐る振り向きながらその方を向くと、ドアの隙間から覗く視線があることに哲矢は気がつく。

 だが、遠慮がちに覗くそれは、哲矢の顔を見るなりすぐに奥へ引っ込めようとしてしまう。


 その瞬間を哲矢は逃さなかった。


「鶴間っ!!」


 正面に立って哲矢が大声でそう口にすると、ドアに隠れたその影の動きはぴたりと止まるのだった。

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