第227話 哲矢サイド-35
ブレザーの制服越しからでも分かる躍動する筋肉の動きを見れば、中井が体を鍛えていることは一目瞭然だ。
心を決めなければ確実にやられる。
そんな極限の瀬戸際にいることを哲矢は理解する。
(大貴っ、お前はどこまで知ってたんだ……!?)
死の匂いさえ漂い始めるこの教室の片隅で哲矢の脳裏に浮かぶのは、心が通じ合ったと思った対敵の名前であった。
「その顔、すげーブスでさいこーじゃん♪ 中井ぃーもう遊ばなくていいからさぁ~動けなくなるまでそいつボコっちゃって」
忌まわしき女神の艶笑に応えるように中井が一瞬後ろを振り返ると、その隙を哲矢は見逃さなかった。
(今だ!)
結果を考える間もなく、体が反射的に動く。
気づけば、精一杯の右ストレートを哲矢は相手の後頭部目がけて繰り出していた。
そして、それは絵を描いたように綺麗にヒットする。
「ゔッ!?」
中井は低い呻き声を上げながら前のめりに倒れそうになるのだったが、すぐに体勢を整えると、振り返って鋭い目つきを哲矢にぶつける。
哲矢にできた反撃はそこまでであった。
華音は、哲矢渾身の一撃を軽くあざ笑うように大袈裟に腹を抱えてみせる。
「キャハハッ♪ なにやってんだよぉ中井ぃー。オホモダチに一発貰ってんじゃねーよ、タコぉー」
甲高い声が教室全体に響き渡る。
今度こそ中井は振り返ることはなかった。
頭の後ろをゆっくりと擦りながら再び臨戦の構えを取ると、中井はそのまま予告することなく、哲矢の顔面に目がけてジャブを繰り出してくる。
その目にも止まらぬ速さで振り抜かれる拳はボクサーの動きそのもので、初めの数発は辛うじて避けることができた哲矢であったが、脇腹に一撃アッパーが入って体が沈むと、以降はサンドバッグのようにボコボコに打ちのめされるのだった。
「ぐがぁぁッ――!」
呻き声を上げながら机の海に投げ出されるようにして哲矢が倒れ込んでも、中井は丹精込めた拳の一発一発を固辞することはなかった。
床に転げ、逃げ回る哲矢に対して、大男の進撃は止まらない。
彼は豪気を掲げながら暴力を正当化していく。
その結果、度重なる暴行が朦朧とする哲矢の意識を遮断寸前のところまで追い込む。
悪夢はどこまでも続くかに思えた。
意識を必死で繋ぎ止めようとする哲矢であったが、相手の容赦ない猛攻についに根負けし、決定打は中井の右足から振り抜かれたローキックであった。
「ぐぼおぉッぇ……!!」
それが脇腹の芯に深く入り込み、強烈な衝撃が電流のように体内を駆け巡って、哲矢は逆流させた異物をその場に吐瀉してしまう。
「うわ、汚ったねぇ~。中井ぃ! もっと上手く仕留めろよぉー」
「…………」
「ったくー。ま、これはこれでいいザマだけどっ♪ 早いとこ処分して~」
彼女の言葉に頷いた中井は床にうずくまる哲矢の前髪を強引に引き上げると、おそらく最後の仕留めにかかるべく右腕を大きく振りかざす。
「……ぐァ……ごボぉ……」
哲矢は本能的に直感する。
〝こいつらは本気で俺を殺そうとしているんだ!〟と。
その衝撃は計り知れなかった。
火を噴くようにして痛む体の節々よりも、頭の中でけたたましい音を立てながら響くサイレンに哲矢の意識は向いてしまう。
(この場にいたら間違いなく殺される……!!)
そう思うと形振り構ってなどいられなかった。
髪くらいどうなってもいい。
激痛を覚悟した哲矢は、全体重をもって前髪を大男の手から引き剥がすと、朦朧とする意識の中で出口を目で追う。
倒れた拍子にどこかぶつけたのか。
鼻を触るとそこからは真っ赤な血が滴り落ちてくるのが分かった。
だが、そんなことを気にしている余裕はない。
もはや、哲矢の精神は限界寸前にあった。
今最も優先すべきことは自身の体を労わることではなく、悪魔の手を逃れ、この教室から一歩でも遠くへと逃げることであった。
しかし――。
当然、それを彼らが見逃すはずがない。
フラつく足取りでなんとかドアまで辿り着く哲矢であったが、その背後には弱った獲物を嬉しそうに見つめるギラついた目の中井がいた。
その姿は、食物連鎖の最上位に君臨する者のそれであった。
「ぁガぁっ……!?」
呆気なく捕まってしまった哲矢は、抵抗する間もなく再び地獄の中へ放り投げられる。
ものすごい音を立てながら周りの机や椅子が散乱するさまに混じり、華音の楽しそうに笑う声が木霊する。
「終わりにしてやる」
そんな呟きと共に綺麗なフォームを描いて繰り出される中井の右ストレートが哲矢の顔面に見事命中した。
投げ出されるようにして床に後頭部を激しく叩きつけると、哲矢の恐怖は極限に達する。
その瞬間、哲矢の意識は現実から完全に遮断された。




