第225話 哲矢サイド-33
予め用意しておいた上履きを下駄箱で履き替え、園内に足を踏み入れた哲矢は、まだ近くに残っているかもしれない生徒や教師らの存在に細心の注意を払いながら教室棟までの道を進む。
廊下を歩きながらふと感じるのは、つい昨日まで普通に生活をしていた懐かしさであった。
どれも見覚えのある景色のはずだったが、今日はどこかよそよそしく見え、それがかえって哲矢に使命感を与える。
ここはすでに自分のいるべき場所ではないのだ。
いずれ、元の世界へ戻らなければならない。
そう考えると、これからやるべきことはより明確になるのであった。
渡り廊下を過ぎると、体育館の方角から放たれた拡声器のアナウンスが徐々に聞こえ始めてくる。
立会演説会にあたっての趣旨説明が行われているのかもしれない。
ここからだと中の様子は見えなかったが、きっと花も今ステージに上がっているに違いなかった。
心の中で彼女にエールを送ると、哲矢は教室棟1階奥にある三年A組の教室までの道をさらに急ぐ。
幸いまだ誰とも遭遇していなかった。
侵入の一件で場に慣れたという理由もある。
もしかすると、職員室を除きすでに校舎は無人なのかもしれなかったが油断はできなかった。
昨日は自分のミスでメイが捕まってしまったのだ、と哲矢は思う。
だが、それとは別に、状況が以前とまったく異なることにも哲矢は気づいていた。
防犯カメラの位置が手に取るように分かるのだ。
昨夜の真っ暗闇と違い、明かりが差し込む廊下の視界は驚くほど良好であった。
教訓からだろう。
普通に学園生活を送っていた頃には気にも留めなかったそれが今では嫌でも目についていた。
軽快にそのポイントを避けながら哲矢は廊下を進んでいく。
もし、仮にこれが暗視可能なカメラだとすれば、哲矢たちの姿はしっかりと記録されていたに違いなかったが、花の話では朝のホームルームでメイが捕まった件は一切報告されなかったという。
一筋縄ではいかない学園側の思惑を不気味に感じながら、歩みを進めているうちに哲矢はいつの間にかA組の教室に到着しているのだった。
物音を立てないよう静かにドアをスライドさせて、忍び足で室内へと入る哲矢であったが、利奈の姿はどこにも見当たらなかった。
(……あれ、まだ来ていないのか?)
この場所で彼女と合流し、哲矢が応援演説の内容をレクチャーする手筈となっている。
若干の不安を感じながらも哲矢は近くの椅子に腰を下ろし、利奈の到着を待つことにした。
彼女には感謝してもし切れないという経緯がある。
土壇場で代行を引き受けてくれたことは本当に助かった、と哲矢は感じていた。
今はただ利奈が約束通りこの場所に現れることを待つほかなかった。
◇
しかし、時が1秒1秒と過ぎるたびに楽観していた哲矢の表情は徐々に曇る。
最初は生徒会の仕事が長引いて遅れているものだと考えていたが、もしかすると直接体育館へ向かってしまったのではないかという不安が哲矢の中に生まれ始める。
何か不測の事態が起こりつつある予感があった。
(なんで来ないんだ、鶴間……)
利奈が応援演説で読み上げるスピーチ原稿は今哲矢の手中にある。
それを持たずに彼女が体育館へ行ってしまう可能性はやはり考えられなかった。
(……いや。あるいは……)
膨れ上がった疑念が破裂寸前のところで停止する。
教室のドアがカラカラと緩い音を立てて開いたのだ。
自身の邪推を恥じて「待ちくたびれたぞー」と冗談まじりの挨拶を用意していた哲矢であったが、その場に現れたのはまったく予想外の人物であった。
「――ッ!?」
予期せぬアクシデントに哲矢の鼓動は急速に波打つ。
哲矢は目の前の者に見覚えがあった。
(神武寺っ……!)
昨日の悪夢が瞬時にフラッシュバックする。
頭に浮かぶのは横暴な連中のイメージで、今まで忘れかけていた頬の痛みも突如甦ってくる。
華音はドアを開けて立ったまま何をするわけでもなく、中途半端な姿勢で椅子に座る哲矢を舐め回すように一瞥すると、フッと鼻で小さく笑う。
まるで透視されているような気分であった。
「オホモダチ発見っ~! 今からふるぼっこにしてやんから♪」
どこかあどけなさの残る声に、哲矢は何も答えられない。
華音はサイドアップした長い後ろ髪を弄りながら、教室に足を踏み入れてくる。
「ほらっ中井ぃー。いつまでそこいんだよぉ、出てこいって~」
華音がそう口にすると、小柄な彼女の後ろから大男が姿を現す。
(中井っ……!?)
まるで、用心棒のようにのらりくらりと彼も室内へと入ってくる。
恵まれたその体格は、少し離れていても十分に迫力があった。
バンッ!!
そして、鈍い音を立ててドアが完全に閉まってしまうと、ようやく哲矢は自分の身に何が起きたのかを理解するのだった。




