第206話 哲矢サイド-31
(さぁ、急ごうっ!)
大貴が立ち去った以上この場所に留まる理由はなかった。
少しでも気を許せば、高所の恐怖が甦ってきそうだったのだ。
改めて周辺を見回す哲矢であったが、下層まで降れる手段は避難ハッチの使用以外だと非常階段を使う道しか残されていないようであった。
(……でも)
その時、哲矢はふと思う。
大貴がハッチの梯子を使わずに屋上までやって来たのだとすれば、かご室の中に転がっていたあの引っ掛け棒は一体何だったのだろうか、と。
どこか釈然としないものを感じる哲矢であったが、頭の中では先ほど彼が漏らした言葉がリピート再生されていた。
〝お前が来なければ……〟
面と向かってあからさまな恨み言を受ける機会などそうないので、その台詞は哲矢の脳裏にはっきりと焼きついてしまったようだ。
無意識にその言葉を何度か頭の中で復唱していると、哲矢はある違和感を抱き始める。
それは回数を重ねるうちに哲矢の確信を揺らしていく。
そして、こう思うのだ。
(待てよ……。俺はとんでもない思い違いをしてたんじゃないのか?)
哲矢には時折大貴の姿を見て思うことがあった。
自分の身は二の次で構わないというような捨て身の精神がいつも彼の背後に見え隠れしていたように思えるのだ。
例えるなら、それは刑罰が執行されるのを心待ちにする受刑者のような達観さだ。
刹那に寄せた哀愁さがいつも彼を超然とした姿に見せていたのかもしれない。
(……いや。考え過ぎだ)
貯水槽の脇にある鉄格子に目を合わせながら哲矢は首を横に振る。
昨日から精神が高揚状態にあるため発想が飛躍してしまっているのだろう、と哲矢は思う。
だが、そうとは分かっていても、そのイメージは簡単に払拭することができなかった。
哲矢の妄想はなおも続き、大貴の言葉は不穏な続きで締め括られることとなる。
「――俺はここから飛び降りていたかもしれない――」
眼下に広がる光景を眺めていると、突然、そんな言葉が哲矢の口を衝いて出た。
まったく意図せずに、哲矢はそんな言葉を口にしていた。
まるで何かが乗り移ったかのように。
(……なに言ってんだ。バカバカしい)
しかし、当然ながらそんなことはあり得ない。
哲矢がそう口にしたのなら、その意味を探るヒントは自身の内に隠れているはずであった。
思い当たる節はすぐに見つかる。
虚構の狭間。
そんな名もなき妄想の一端で、哲矢は確かにそれと同じ言葉を耳にしたのだ。
その囁きはとてもリアルに響き、強靭なオーラに引っ張られる形で哲矢は先の台詞を声にしていた。
「…………」
粟立つ腕を擦りながら、哲矢はもう一度その言葉が意味するものを慎重に検証しようと試みる。
だが、思考は靄に絡まったように上手く機能しない。
ただ一つ分かることは、大貴は何も誰かを責め立てようとしてあのような言葉を口にしたわけではない、ということであった。
自身と向き合うために、彼にはそれを口にする必要があったのだ。
我に返った哲矢の頭は清々しいほど澄み切っていた。
まるで、一足先に訪れた5月の鮮やかな太陽が胸の内を熱く照らしているようであった。
それから、哲矢はほとんど反射的と言ってもいいほどのスピードで踵を返すと、キュービクルやら非常用発電機やらが並ぶ間を器用に縫って進んでいく。
そして、貯水槽の辺りまで至ると、照準を合わせてきた非常階段の入口に辿り着く。
大貴から遅れること数分。
哲矢は彼と同じようにして古い鉄格子を押し開くと、外側に突出した階段に足を踏み入れる。
手すりから身を乗り出せば下界に映えるニュータウンの街並みが一望できたが、同時に脚も震え始めたので、なるべく下は見ないようにと哲矢は努めた。
目下の目標は一刻も早く市庁舎の中へと戻ることなので、一段ずつ確実に降りることだけを念頭に置いて哲矢は足を下ろし続ける。
しばらくそのまま進むと、哲矢の眼下に鉄の一枚扉が姿を見せる。
非常階段はそこで途切れており、扉の前に下り立つと、鍵がかかっているかもしれないという可能性はあえて無視するようにして、哲矢は強引にドアノブを手前に引いた。
ギィッ。
鈍い音を辺りに軋ませながら扉はあっさりと開く。
「えっ……」
その瞬間、目に飛び込んできた光景を見て、哲矢は思わず驚きの声を上げてしまった。
なんと非常階段への扉は市長室のすぐ脇に設置されていたのだ。
部屋を飛び出た時は、エレベーターホールに気を取られてしまっていたので非常階段の存在に気づかなかったのだ。
(……まただ)
ここでも哲矢はどこか釈然としない思いを抱く。
仕組まれたプログラムの上で踊らされているようなそんなデジャヴがあった。
念のため周囲を見回してみるが、やはり大貴の姿は見当たらなかった。
カタカタカタと、どこかで鳴る空調の音が単調に響いているだけだ。
市長室の中へ戻ったことも考えられたが、原因の発端が何一つ解決されていないため、それはあり得ないと哲矢は思う。
また、これ以上大貴を追う理由もなかった。
すでに彼との関係は決着したのだ。
(さて……どうするかな)
急ぎ足で降り進んだためか、哲矢は自分でも気づかないうちに呼吸を荒げていた。
少し落ち着くために深呼吸を何度か繰り返す。
「すぅー、はぁー、すぅー……」
【市長室】と掲げられたプレートと木目調の二枚扉を横目に見る哲矢であったが、やはり近づき難い印象は変わることはなかった。
中ではまだあの下世話な密会が続いているのだろうか。
この静まりようから察するに、了汰は部屋を飛び出した息子の心配などしていないのかもしれない、と哲矢は思う。
かといって、代わりに室内の様子を覗きに戻るほどの勇気を哲矢は持ち合わせていなかった。
ゆっくり呼吸を整えながらそんなことを考えていると、一瞬聞き覚えのある声が哲矢の耳元をすり抜けていく。
(……?)
遠くの方で確かに誰かに名前を呼ばれた気がしたのだ。
そして、それはなぜか、必然の出来ごとのように哲矢には感じられるのだった。
一本道の廊下の先からこちらへ近づく影があった。
それはささやかな静寂を悠然と切り裂くように、テラゾーの床をヒールで強く叩きながら、尚且つ規則的な音を廊下に響かせてこちらへ向かってくる。
その音に耳を澄ませていると、懐かしさが込み上げてくるから不思議だ。
影の輪郭は徐々に浮き彫りになり、やがて哲矢はその者と向き合う形で対峙する。
足を止めた〝彼女〟の表情からは若干の疲労の色が見て取れた。
呆れ気味に第一声を口にする。
「……ここでしたか」
強い責務の念を瞳に宿らせ、仁王立ちのポーズを取る山北がそこにいた。




