第205話 哲矢サイド-30 / 哲矢と大貴 その4
次の瞬間、哲矢の内で押し込めていた感情は、留め具が外れたみたいに一気に外へと放出されてしまう。
まるで、善悪の世界とは無縁の幼子へと回帰したような清々とした罪悪感がそこにはあった。
そして、哲矢は思うのだ。
なぜもっと早くこれを口にしなかったのか、と。
走馬灯に映し出される原風景を万華鏡のレンズから覗き込むような錯覚を抱きながら、結果的にその選択は一番手っ取り早い解決法であるという皮肉を哲矢は身をもって体感するのだった。
「Twinner……」
それは何の脈略もない単語。
大貴の問いに答えているわけでもなく、完全に前後の繋がりのない言葉である。
だが、確実に真実を炙り出せる物差しであった。
ある人物に限っては。
「っ……」
条件反射気味に漏らす呻き声から、大貴がその返しをまるで予想していなかったことが窺える。
僅かではあったがそこには得体の知れない恐怖に震える人間の本質のようなものが見え隠れしているように哲矢には感じられた。
強烈な不信感に犯された視線をひしひしと感じる哲矢であったが、そのことを意図的に無視するようにして、今まで胸の奥にしまい込んでいたその台詞を哲矢はついに本人を前に口にしてしまう。
「昨日、俺のTwinnerアカウントを使って、誰かが少年調査官の存在をバラす投稿をしたんだ。それをやったのは……大貴、お前なんだろ?」
その刹那――。
時間が停止する音を哲矢は確かに耳にする。
「…………」
大貴は目を見開いたまま、じっと哲矢の額の辺りを捉えていた。
まるで、能面を被ったかのように感情の起伏を一切抑えながら。
「マルチメディア室でお前の名前が書かれた使用許可証が落ちているのを見つけたんだよ。使ってたパソコンの履歴を辿ったら、俺のTwinnerアカウントにログインした形跡があった。お前がそこにアクセスしたんだ。これがなにを意味するか……分からないわけじゃないだろ!」
「…………」
彼は無言のまま、魂を引き抜かれたようにその場に立ち尽くす。
哲矢としても自分の言葉に驚きを隠せなかった。
まさか、これほどはっきりと正直に口にできるとは思っていなかったのだ。
震える指先が興奮の大きさを物語っていた。
発言者がこんな調子なので、面と向かって断定調に指摘された大貴としては、これを宣戦布告の合図と受け取っても不思議ではなかった。
それからしばらくしても、大貴の様子は変わらない。
視線だけは発言の裏に隠れた真意を探るように哲矢の瞳の奥を覗き込もうとしていたが、それは無駄に終わる。
なぜなら、哲矢は最深部までは至れないように緻密に細工をし、あらゆる可能性に施錠を重ねていたからだ。
もちろん、その代償は大きい。
売り言葉に買い言葉で、結局、哲矢は本来の決意からは逸れて、最悪の形で〝結〟を引き寄せてしまったからである。
そして、厄介なことはそれが大貴によって渡された手綱であるという点であり、今回のジレンマの元凶となっていた。
大貴は口元を吊り上げて笑う動作を作ろうとしていたが、何度やってもそれは上手くいかない。
点と点を結ぶ直線上に自らの意思で障害物を作り上げ、途方に暮れているようなそんな滑稽さがそこには存在した。
それを哲矢の強かな本能は見逃さない。
便乗する形で窮鼠<きゅうそ>を追い詰める残忍な猫に成り切る。
今の哲矢には、こうした配役しかもう残されていなかった。
「……なにも答えないならそれでいい。その代わり必ず立会演説会へ来い。そこでお前の言うところのすべてを証明してみせるから」
話の切れ目を見計らって、哲矢は大貴の前に手を差し出す。
すでに、空高くまで昇り始めた陽光がスポットライトを当てるように、そこに暖かな陽だまりを作り出していた。
哲矢がこうしたのには相反する二つの理由があった。
ここで既成事実を作ってしまいたかったというのが一つ。
もう一つは、大貴に逃げる最後の機会を与えたかったというものであった。
もし、彼が手を握らずにそのまま立ち去るようなことがあるとすれば、哲矢はそれ以上追いかけるつもりはなかった。
なぜ、こんなことをするのか。
哲矢は自分でも上手く説明ができない。
この行為が意味するのは、メイや花たち仲間に対する裏切りに他ならない。
それが分からないほど哲矢は子供ではなかった。
〝敵の毒牙にやられてしまった〟と後ろ指を指されたとしても、哲矢は反論することができなかった。
(分かってる……。分かってるよ……)
それでも、哲矢は仲間を裏切ってでも、この選択だけは大貴の判断に委ねたかった。
けれど――。
毒と甘美が入り混じった期待はすぐに打ち砕かれることになる。
ここへ来てまだ迷いを見せる哲矢とは対照的に、大貴の思いは固まっているようであった。
彼はその言葉を待ち望んでいたかのように顔をパッと明るくさせると、目を輝かせながらこう答える。
「フフフッ。それは楽しみだ。俺は傍から見学させてもらうよ」
今度こそ大貴は歯を光らせ、笑顔を作ることに成功する。
その表情からは、純粋にゲームを楽しむ少年のようなあどけなさが感じ取れた。
そして、それが大貴の最後の台詞となった。
彼は、映画のワンカットからフレームアウトするように、雑多に配置された室外機や冷却塔などを器用にかわして進む。
やがて、現れた時と同じように貯水槽の付近まで至ると、ちょうど哲矢の位置から死角となった場所に隠れた古い鉄格子に手をかける。
どうやらその先は非常階段が続いているらしく、大貴はそれをゆっくりと押して開くと、規則正しい靴音を響かせながら階段を降りていった。
その間、ほんの数秒の出来ごとであった。
哲矢はそんな彼の行動を一時たりとも見逃さないように必死で目を追う。
その姿が完全に消えてしまうと、辺りに張り詰めていた緊張は一気に解けるのだった。
(あんなところに鉄格子があったのか)
屋上へと続く別のルートがあったことは驚きであったが、今はなぜその存在に気づかなかったか、自身の中で議論を交わしている暇は哲矢の中にはなかった。
最後の審判はすでに下されたのだ。
あれほど吹き荒んでいた春の風は、嘘のように静まり返って周囲は穏やかな陽気に包まれる。
その鼻孔をくすぐる甘い香りに抱かれるようにして、哲矢はある一点を見つめ直し、かつてそこにいた者の温もりを感じ取ろうとする。
だが、これまで同じ時間を共有してきたにもかかわらず、哲矢は彼の顔や声色がどんなものだったかを上手く思い出すことができなくなっていた。
まるで、幻影の中に一人取り残されたみたいに……。




