第204話 哲矢サイド-29 / 哲矢と大貴 その3
「お前が来なければ……」
大貴が何を言おうとしていたのかは哲矢には分からない。
なぜなら、すぐに彼が自己完結するような言葉を続けたからだ。
「……いや、それも違げーか」
彼は頭をかきながらあさっての方角へと顔を向ける。
その一瞬の表情が哲矢の中の何かを大きく動かした。
いつの間にか右手は、痛みを感じるほど強く握り締められている。
それは、強烈な嫌悪感を抱いていることを暗に意味していた。
すると、頭上から何かがスッと舞い降りてくるように、その時、哲矢は自分が何に対して激しい怒りを覚えていたのか結論にようやく辿り着く。
〝あぁ、そうなんだ〟と、哲矢は自分の内で何かが溶解するのが分かった。
そう――。
我慢がならなかったのだ。
学園では堂々と振る舞いカリスマとしての地位を確立している大貴が了汰の前ではまるで長いものには喜んで巻かれる卑しい狐のように平然と屈服している姿が。
今の大貴は意思を取り除かれた操り人形よろしく、女々しい存在と成り下がっているのが哲矢には堪らなかった。
だから、大貴の横顔を見ていると、哲矢の決意は嵐を前に波打つ高潮のように揺らぎ始める。
(本当にこれでいいのか?)
これから哲矢たちが行おうとしていることは、一人の人生を大きく狂わせかねないものであった。
昨日までは〝相手は敵だ″と分別していたからこそ迷う気持ちも生まれなかったが、今となってはそれは違う。
この数時間のうちに哲矢は大貴のパーソナルな部分に触れ過ぎてしまった。
弱々しい一面を知り、それでも温情を抱かないのだとすれば、それは悪魔に魂を売ることと同義だろうと哲矢は思う。
少なくとも血の通った人間らしく振る舞っていたいという思いが哲矢にはあった。
(くっ……)
もう誰と何が正義で悪か。
哲矢にはその判別がつかなくなっていた。
「…………」
苦悶の皺を深く寄せる哲矢の表情を見て、結果的にここまで連れて来ることになった経緯の責任を思い出したのか。
大貴はこれまでの柔らかさが嘘のように突然強気な態度へと変貌し、話題を大胆にすり替えようとする。
けれど、やはりそれは不自然であり、クランケのうわ言のように哲矢の耳には届くのだった。
「そーいや、アレどうなった? 一昨日、お前をボコった時に言ったよな? 俺が事件に関わってる証拠を提示してみろって」
耳触りは攻撃的に聞こえるその言葉も、不安そうに彷徨わせる視線は誤魔化せなかったらしい。
哲矢はそんな彼の一瞬の機微に気づき、返答するのを躊躇ってしまう。
大貴に対して同情の意識が介入してしまったことは否定できなかったが、理由はそれだけではなかった。
これが大貴のアイデンティティを回復させるためのシークエンスに過ぎないことが分かり、それが哲矢の口を鈍らせるのだ。
彼の姿は時を重ねる毎に惨めとなっていくようで、哲矢の胸は強く締めつけられる。
(なにか言わないとっ……)
それでも、哲矢はこの状況をどうにか打開しようと試みる。
単純に沈黙が苦手というのもあった。
頼みの綱は、大貴の側で取り繕われたアンインストールの手引き。
クールな返答はこうあるべきという想像上の大貴の声をイメージする形で、哲矢はその場凌ぎの美辞麗句を並び立てる。
「……問題ないさ。今は立証してる最中だ」
口に出してみると、不思議とそれはあたかも哲矢自身が考えた言葉のように響く。
その滑舌に便乗するように、哲矢は勢いを持って言葉を続けた。
「だって、そうじゃなきゃ殺されるんだろ? そりゃ、真面目に探すよ」
そう冗談混じりに笑い飛ばす哲矢ではあったが、内心では大貴と向き合う覚悟を決めつつあった。
それを受けた大貴は以前の悪役が舞い戻ってきたように、ワンツーと架空の標的へ向けてシャドーボクシングを繰り出す。
「フフフッ……クハハハッ!! そうだッ! 今度こそお前の体に風穴空けてやる!」
屋上に響く大袈裟なその高笑いを耳にして哲矢は少しだけ安堵する。
〝これでいいんだ〟と、自分を誤魔化す口実ができたと思ったのだ。
体を揺らしながらなおも可笑しそうに笑い続ける大貴の真意は読み取ることはできない。
ただ、淡々と目の前の現実と向き合おうとしていることだけはなんとなく伝わってきた。
そして、突如表情を変えると、まるで最後通告をする外相のような深刻な面持ちで大貴はこの数時間のハイライトとも言うべき質問を投げかけてくる。
「立証は順調だって……そう考えていいんだな?」
周りの空気が自粛するように、厳かな雰囲気へと変わるのが哲矢には分かった。
その間を縫って、今度はどう答えようかと哲矢は模索する。
おそらくこの質問に対する正解は首を縦に振ることにある、と哲矢は瞬時に分析する。
(頷くんだ)
ここで〝イエス〟と答えることの重要性。
今日、大貴との間に起きた出来ごとをすべて忘れ、今までの敵対した関係に戻るならこれが最後のチャンスであった。
(ここで立場をはっきりさせるんだ)
だが、しかし――。
この茶番劇の限界が近いことも揺るぎない事実であった。
それが分かると、今まで静観を貫いてきた哲矢のプライドが疼き始める。
それは、見る見るうちに抑制できない衝動へ変わっていく。
もしかすると、妥協を求めてしまった時点ですべては手遅れだったのかもしれない、と哲矢はふと思うのであった。




