第201話 哲矢サイド-26
這い上がるようにして避難ハッチから退くと、哲矢は自分が屋上のような場所に立っていることに気がつく。
しかし、そこは哲矢のよく知る場所とは何かが決定的に異なっていた。
学校の屋上のように見えるのに、人が訪れるための構造を取っていないのだ。
普段見ることのない巨大な建築設備が乱雑に配置されている。
室外機や冷却塔、キュービクルや非常用発電機、貯水槽や避雷針など。
近くにあるだけで圧倒されてしまいそうなオーラがそこにはあった。
その光景は哲矢に不気味に稼働を続ける港町の工業地帯を連想させる。
それらの設備が目隠しの代わりとなってつい忘れてしまいそうになるが、市庁舎の屋上に到達したということは、ここが地上から100メートルも離れた場所にあるということを意味していた。
意識してしまうとスーッとお腹が浮くような浮遊感に見舞われるため、哲矢はなるべくそのことを考えないようにする。
ビューン!
その時、春の陽気を貫く突風がものすごい勢いで屋上の間をすり抜けていく。
「くっ……!」
どんなに考えないようにと努力しても、今自分がとんでもない場所にいるという思いは消えてくれそうになかった。
まだ悪夢は終わっていないと指さされているような気がして、なぜかあの空調の効いたエレベーターホールを哲矢は無性に恋しく思うのだった。
現実的にはそこまで戻ることも可能であったが、あの闇と再び対峙しなければならないと思うだけで哲矢の気持ちは憂鬱となる。
まるで、世の移ろいをただ見守り続ける地蔵菩薩のように、本来の目的も忘れてその場に固まる哲矢であったが、今度の悪夢はそう長続きはしなかった。
「――ここまで追ってくるとは恐れ入ったぞ」
突如、声が響く方へ哲矢は体を反射的に振り向かせる。
(あっ……)
なんとなく、そんな予感がしていた。
驚きよりもまず〝間違っていなかった〟という安堵の思いが込み上げてくるが、そんな感情は悟らせまいと、哲矢は淡泊に首を縦に振る。
声の相手――大貴は、貯水槽の影から顔を覗かせていた。
「ここからの眺めが一番好きなんだ」
彼は少し見ない間にミュージカル俳優へと変身したように、決して物怖じしない態度で口にしながら手招いてくる。
こっちへ来い、という合図だろうか。
だが、考える間もなく哲矢の足は自然と反応してしまう。
足場にところ狭しと配管されたダクトに気を配りながら彼の後を追うと、少し開けた場所に辿り着く。
(お、おわぁ……)
周囲にはフェンスのようなものはなく、足を一歩踏み外せば地表まで真っ逆さまであることが容易に想像できた。
先ほどから春一番が吹き荒れているせいもあり、哲矢は恐怖で下を見ることができない。
一方で大貴は、まるで臆する様子もなく身を乗り出すようにして眼下に広がる光景に目を向けていた。
そして、口角を器用に吊り上げながら下界を指さす。
「見ろよ」
「……み、見ろって……」
そう恐怖で足がすくむも、哲矢にもプライドがあった。
これ以上、醜態を晒すわけにはいかないと覚悟を決めると、その指先だけに焦点を当てるようにして彼が指さした方角を薄目で覗き見る。
すると、緑豊かな桜ヶ丘ニュータウンの街並みが雄大に広がるさまが哲矢の視界に飛び込んできた。
大貴は哲矢の反応を見て満足そうに頷くと、全景をすっぽりと手中に収めるように目の前で指の輪っかを作ると、同意を求めるように訊ねてくる。
「美しいと思わねーか?」
どこか嬉しそうに口にする大貴に釣られ、今度はしっかりとその光景を焼きつけるため、哲矢は目を大きく開いてみる。
確かに、彼の言う通りその眺めは圧巻であった。
迷路のように入り組んだ団地や公園も、この場所からだとどれも綺麗に区画されていることが分かった。
広大な面積を誇る宝野学園、大貴が暮す住宅地、桜ヶ丘プラザ駅周辺のショッピング街、住民の憩いの場である桜ヶ丘中央公園、花が住むタワーマンション、麻唯が入院する瓜生病院……。
どこもここから一瞬のうちに臨めるのだ。
その壮観は、深い森に覆われた巨大な都市そのものであった。
およそ半世紀前、この街を設計した者たちの思いが今の哲矢には理解できる気がした。
彼らはより美しく生活と自然が共存できるように創意工夫を凝らし、新世界の創造を実現したのだ。
遠くには新宿の高層ビル群が蜃気楼のように揺らめいていた。
その景色を見て、ここが紛れもなく東京の一部であることを哲矢は再認識する。
(都心にもこんな近くて、街は美しいのに……)
ふと哲矢の内に湧き起こるのは、怒りにも似た感情であった。
少子高齢化の影響も街が衰退している原因だろう。
けれど、問題はそれだけではないはずだ、と哲矢は思う。
そうして哲矢が複雑に去来する感情と向き合っていると、どう返答すればいいかと思い悩んでいるという風に大貴に捉えられたらしく、彼はゆっくりと歩みを進めながら話を補填するように再度口を開いてくる。
そして――。
奇しくもその言葉は、哲矢の疑問を解決へと導く役割りを担うのだった。
「まあ、けどよ。こんな美しい景色の影に様々な問題が隠れているのもまた事実だ。そして、お前はこの数時間のうちに何度もそれを目撃してきたはずだ」
〝それがお前をここまで連れてきた理由だよ″
そう後に続いても不思議ではないくらい大貴の言葉には熱が込められていた。
それが分かった瞬間、彼が何か重要なことを伝えようとしている、と哲矢は直感する。
しかし、それが何なのか。
哲矢が理解するまでには至らなかった。




