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桜色の街で ~ニュータウン漂流記~  作者: サイダーボウイ
第4部・立会演説会編 4月10日(水)
198/421

第198話 哲矢サイド-23

「(お前、あれがなんだか分かるか?)」


 その時、哲矢の耳元に大貴の小声が木霊する。


 その問いに感じたことをそのまま返していいのかどうか分からず哲矢が言葉を詰まらせていると、大貴はまるで優しい手つきで赤子をなだめるように解答を丁寧に提示してくる。


「(密談だよ。互いの利益を確認して、議会の前に予め大筋を決めておくのさ)」


 中途半端に誤魔化すことは相手に更なる不安を与えることになる、ということを大貴は知っているのだろう。

 彼は目の前で行われる不正を包み隠さず暴露する。


 それが例え実の親が絡んだ行為だとしても、大貴の瞳には躊躇の色は浮かんでおらず、毅然とした態度で現実と向き合っていた。


「…………」


 だが、それでも哲矢は何も口にすることができなかった。

 大貴ほどの覚悟をまだ持てていないと実感したからだ。

 

 しかし、これほど桜ヶ丘市の滅茶苦茶な現状が露呈するとまともな解決は難しいのではないか、という疑問が哲矢の中に生じる。

 

 紆余曲折の歴史が歪な土壌を育んでこの現状を作り上げたというところまでは理解できても、それに異を唱えるアウトサイダーの存在はない。

 市民のほとんどは市政を信じているのだろう、と哲矢は思った。


 だが、彼らが信じている桜ヶ丘市の先行きはとても不透明であるのも事実だ。

 まるで、沈没しかかっている客船の束の間のパーティーを皆で精一杯楽しもうとしているように、哲矢の目には哀愁帯びて映る。


 肝心なことは、市民の多くがその沈みつつあるという現実を直視できていない、ということにあった。

 

 大貴は、哲矢に去来する複雑な心境を察するように神妙に頷くと、何か一言二言呟き、どこか吹っ切れたように突如その場から立ち去ってしまう。

 それは本当に突然のことだったので、哲矢は声をかける間もなく唖然とその後ろ姿を目で追うのだった。


 校長や追随する委員らもすぐに大貴の異変に気づいた様子であったが、誰も彼に声をかけることはしない。

 ただ、了汰だけが息子の行動を予見していたかのように口元を意味深に吊り上げるのだった。

 

 その中でも山北は一番の選択を迫られたと言えるだろう。

 彼女は、ドアに目がけて猪突猛進の突破を試みる大貴と対峙しなければならなかったからだ。


「だ、大貴様っ……!?」


 山北としては驚きの声を上げることが唯一の抵抗となった。

 成す術なく大貴の進行を許してしまうそのさまは、まったく以って彼女らしからぬ幕切れであった。


 普段の山北ならこれ以上面目は潰されまいと何としてでも制止に努めるに違いなかったが、おそらく彼女は分かってしまったのだ。

 父の言いつけを破り、この部屋を飛び出す彼の覚悟がどれほど強大であるかを。


「……っ……」


 山北はただ黙って、開け放たれたドアの隙間から流れ込む微かな風を感じているようであった。

 そこに失われてしまった大貴の温もりを探し求めるように。

 

(大貴っ……)


 一方で哲矢としても彼の行動は予想外のものであった。

 まず、大貴が了汰との約束を破りこの場所から立ち去ったという現実を受け入れるのに少しの時間が必要であった。


 彼ら親子の関係は心の底で大貴がどう思っているにせよ、了汰に大きなアドバンテージがあるはずだった。

 それはこの半日にも満たない短い時間の中で何度も見受けられ、その考えに間違いはないと哲矢は考える。


 こうして反旗を翻せば、この場限りで済まされる問題とは処理されず、この後も延々と親子の内に深い爪跡を残す結果となるであろうことは大貴としても分かっているはずだ。


 にもかかわらず、彼は大きなリスクを取ってでも行動に出た。

 そこが哲矢には分からなかった。

 

 これといった予兆を感じることができなかった哲矢にとっては、まさに狐につままれる思いだったのである。


(……いや。待てよ)


 哲矢は今一度、現状を冷静に振り返ってみる。


 ここから離れる直前、大貴が見せた言動。

 彼は実の父親が不正に手を染めている姿にも動じず、厳然たる態度でその光景を目にしていた。


 そして、何か一言二言呟いたかと思うと、次の瞬間には少しの躊躇も見せずに姿を消してしまった。

 それが予兆と考えられなくもない。

 つまり、彼を突き動かすトリガーの役割を担ったは目の前で繰り広げられる密談なのではないだろうか、と哲矢は思った。


( 最後まで責任を持って付き合え……)


 哲矢の中にそんな言葉が湧いて出る。

 そこには、どんなことがあっても結末を最後まで見届けてほしいという強い願いが込められているような気がした。


 大貴の意図を汲み取るなら、この後の哲矢の行動は限られていた。


 きっかけとなったのは、大貴の背中を目で追い、薄く下唇を噛む了汰の仕草にあった。

 垣間見えるは鋭角に切り込まれた淀んだ目つき。

 それは、明らかに息子へ向ける眼差しとはかけ離れるものであった。


 突如、哲矢の背筋に冷たいものが走る。


(違うっ……そうじゃない)


 そんな生易しい表現をしてはいけない、と哲矢は思う。


 了汰は笑っていたのだ。

 井蛙<せいあ>が脱出を試みようと奔走するさまをまるで高みの見物でもするかのように。


 ふと我に返ると、室内に居合わせる者たちの視線が自分に注がれていることに哲矢は気がつく。


「……俺は……」


 その期待に応えるように自然と腹の底から太い声が込み上げてくる。

 だが、続く言葉は肝心のところで詰まってしまう。


 一体、自分はどうしたいのか。

 結論はまだ哲矢の中で下されていなかった。

 

 〝自分は関係ない″と一蹴する考えが一瞬哲矢の脳裏に浮かぶ。

 ここで無意味に注目を集めることは、後の不利に繋がりかねないことを哲矢は十分に承知していたからだ。


 今まで目立たぬように上手くやってきたにもかかわらず、なぜ今となって危ない橋を渡る必要があるのか。

 こうした疑問は尽きず、考えれば考えるほど泥沼にハマっていくように思えた。


 しかし、哲矢のそんな曖昧な態度も内から沸き起こる強い意志によって打ち砕かれようとしていた。

 それは了汰が笑いを噛み殺すのと連動するように、徐々に強固なものへと変わっていく。


 ついには、周りにもはっきりと聞こえる声が哲矢の鼓膜に響くのだった。


(なに突っ立ってんだよ! 早く追わないとっ……!)

 

 決断してからの哲矢の身のこなしは早かった。


 感情の清算を未だ引き摺る山北のもとへゆっくりと近づくと、哲矢はその場にいる全員にも聞こえるような大きな声で高らかと立場を宣言する。


「すみませんっ! 俺も出ます!」


 その言葉が引き金となって室内はざわめきに包まれるが、哲矢の心は不思議と落ち着いていた。

 

「…………」


 ようやく、哲矢の存在を認識したように了汰が目を細める。

 彼の口は依然として吊り上がっていた。

 対して、無抵抗に哲矢の突破も許してしまう山北の表情はやはり焦りに包まれている。


 二人の反応は実に対照的であった。


 応接間のドアを抜けると、緩やかな風と共に廊下の光が哲矢の瞼に差し込んでくる。

 後方から何者かに呼び止められるも、哲矢は振り返ることはせず、そのまま市長室を後にするのだった。

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