第197話 哲矢サイド-22
間もなくして仕事がきりよく片づいたのか、了汰が大きく伸びをすると局面に再び動きが見え始める。
「お待たせしました」
そう言って了汰は手を前に差し出すと、校長をはじめとする教育委員会の面々にソファーへの着席を促すため、デスクから立ち上がろうとする。
その刹那――。
深々とした疲労の色を顔面に粟立たせる校長の表情に哲矢は気づいてしまう。
まるで、大地の芯を抉り出すような怨念にも似たどす黒い感情の起伏がそこには見え隠れしていた。
だが、校長はすぐにあっけらかんとした顔つきに戻り、謙遜した態度で了汰と向かい合う。
「いえいえっ! とんでもない。息子さんがどれほど学園で優秀かを話してましたら、あっと言う間でしたわ。グハハハッ」
下品に木霊する笑い声が逆に溝を生んでいるようで、なんだか見てはいけないものを覗いてしまったような罪悪感が沸き起こり、それで校長に対する哲矢の印象は少し変わった。
大貴もその笑い声に釣られる形で表面上はなんとか愛想を保とうとさせている様子であったが、その一方で校長の靦然<てんぜん>たる姿勢を快く思っていない者も確かに存在するのだった。
「…………」
秘書官としての面目を潰された挙句、話の主導を勝手に握られているのだから、当然彼女としては面白くないのだろう。
もしかすると、これまでにも何度かこうした行動は繰り返されてきたのかもしれない。
彼女が慌てて応接間に入り込んできた理由が今なら哲矢には分かった。
山北はこの部屋唯一の出入口であるドアに背中をつけて寄りかかると、腕を組んで自身を蔑みの対象とした集団に向けて遠慮なく睨みを利かせる。
苛立ちげに人差し指をトントンと叩く音が大人気のなさを代弁しているようで、哲矢はなんとも言えないやりきれない気分になる。
大人同士のケンカは子供のそれよりも何十倍も馬鹿げて見えてみっともなく思えるのだった。
「では、失礼させていただきまして~」
校長はそんな山北の態度に気づいていないのか、了汰の案内に応えるように他の委員らを素早くソファーへと座らせる。
一見するとこのような校長の臆面もない振舞いによって場は賑々しさを保っているように見えたが、実際は山北のこともあるように諸々の思惑が複雑に絡み合い予断を許さないのが現状である。
弛んだ体つきとは不釣り合いなほど若々しく刈り揃えた剛毛を擦りながら、校長は今何を思っているのだろうか。
本音の部分は読めなかったが、どちらにせよ山北もまた然り校長の視界からはごっそりと抜け落ちているようであった。
おそらく、彼の内には何らかのコードが存在し、それに触れてしまうと異分子として外へ摘み出されてしまうのではないか、と哲矢は推測する。
校長という立場の者として有るまじき姿勢であると言えたが、ここで哲矢が嘆いても現実が変わるわけではない。
(だから、きっかけが必要なんだ)
今日の計画を無事に成し遂げるためにもここは静観して情報の収集に努めるのが得策だ、と哲矢は頭を素早く切り替える。
全員の着席を見届けた了汰が再びデスクに腰を下ろすタイミングで、校長は大袈裟に驚きながらこう口する。
「いやぁ~それにしても今日はいつにも増してお忙しそうですなぁっ!」
血の巡りの悪そうな爛れた歯茎を校長は恥ずかしげもなくニカッと笑って突き出すと、もはや十八番となった太鼓叩きを重ねながら相手が口を切り易いポイントまで話題を持ち上げていく。
この辺りの人懐っこさは清川にはない点で、二人の住み分けがきちんと成されていることの証とも言えた。
「この後、数件予定が入ってますよ」
了汰も校長が本心で会話をしていないことにもちろん気づいているのだろう。
それでも了汰は気分よさげに今日一日見せたことのない笑顔と共に話を受け応える。
校長のお家芸は本物だ、と哲矢は思った。
山北だけが一人複雑そうな顔を浮かべ、双方のやり取りを悔しそうに眺めている。
「でも、先生方がこうしてお見えになるのでしたら、予定を入れなければよかったですよ」
「いや突然押しかけちゃって本当にすみませんねぇ~。ただ、そう言っていただけるとこちらとしてもとても嬉しいですよ。ハハハッ!」
同意を求めるように校長が委員らに顔を向けると、再びあの薄気味の悪い拍手が広がっていく。
手を叩く誰もが嬉しそうに笑っているのに対して空気はしんと冷え込み、まるで極寒の地さながらの様相と化す。
「……えーではでは、そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか?」
その時――。
校長の口調が突然白々しいものへと変わった。
哲矢の隣りで立ち並ぶ大貴の眉がぴくっと動く。
彼もそれに気づいたようだ。
「例の件ですけど……あれ、どうなりましたかねぇ……?」
そのトーンは明らかに表向きのものではなかった。
室内には無関係な人間が残されているにもかかわらず、校長はまるでデスクとソファーの周りだけ超自然的な力で切り離されていると本気で錯覚しているかのように、そのボリュームを緩めることはない。
そして、続けて語られる言葉の断片から醜悪に満ちたニュアンスを嗅ぎ取ることができ、哲矢は背筋を凍てつかせるのだった。
(こいつ……一体なに言ってるんだ……?)
話の細部まで理解することはできなかったが、これは生徒が耳にしていい類の話ではないことを哲矢は直感的に察知する。
体は拒否反応を起こし、ここから即刻立ち去るようにと警告を鳴らし続けていた。
このままこの場所にいては自身の中に眠る大切な何かを壊されてしまうのではないか。
そんな漠然とした恐怖が哲矢をゆっくりと包み込んでいくのであった。




