第192話 哲矢サイド-17
眩しい陽の光が哲矢の網膜を刺激する。
外は快晴だ。
この場所を訪れた時よりも気温がぐんっと上昇したのが分かる。
麗らかな春特有の甘い香りが哲矢の鼻孔をくすぐる。
新鮮な空気を肺に取り込むと、哲矢は生きた心地を実感するのだった。
(あっ……)
すると、一陣の風が横切る向こう側。
哲矢は労することなく、大貴の姿を見つけ出す。
彼は行きと同じように玄関口から伸びる石段の途中で留まっていた。
(マジかよ……)
思った通りの展開に、哲矢はつい相好を崩してしまう。
運命的な偶然さを感じずにはいられなかった。
しかし、一方の大貴はというと、哲矢の姿にまったく気づいていない様子であった。
段差に足をかけて何かを熱心に見上げている。
その表情は、朝方の湖畔のようにとても静かで落ち着いていた。
(なにを見てるんだ?)
哲矢は気になって彼の視線を追う。
最初、空に目を向けているのかと哲矢は思ったが、そうではなかったらしい。
視線の先には議事堂の外壁があった。
それは、脚光を浴びることから退き、後続に席を譲るような度量ある姿で慎ましやかに佇んでいた。
初めてこの建造物を目にする者は、歴史の重みを感じさせる厳粛な石造りの外観に圧倒されるに違いない、と哲矢は思う。
それでいて守護されるようなどこか超自然的な温もりも同時に感じることができて、議事堂には不思議な魅力があった。
(でも、なんで……)
けれど、それが大貴が目を奪われる理由にはならない。
彼はすでに何度かこの場所を訪れているに違いないからだ。
(あれ? そういえば……)
哲矢は秘書官が大貴の近くにいないことに気がつく。
先ほど、ついて来れば分かると高々と宣言したばかりだというのに、彼女の姿が見えないというのはどういうことなのだろうか。
哲矢はふと腕時計に目を落とす。
(10時32分か)
本会議が終了してからすでに30分が経過していた。
この後、チャリティ音楽祭主催の代表者による表敬訪問とやらが予定されているのだとすれば、もう時間がないのではないかと、哲矢は我がことのように大貴の身が気になってしまう。
(なに油売ってんだ?)
そうして出口の見えない黙考を続けていると、その声は突然何の前触れもなく哲矢の耳に届く。
「――この建物が何年前に建てられたか。お前には分かるか?」
「えっ……」
突如、明け渡される問いは大貴からのものであった。
まさか、こちらの存在に気づいているとは哲矢は考えてもいなかった。
また、勝手に後を追ってしまったことにも後ろめたさを感じていたため、反射的に首を左右に振ってしまう。
大貴はただ無感動に哲矢を見上げると、石段を何度か足で蹴ってから解答を口にする。
「ちょうど100年前だ。関東大震災が起きて、その後に建てられたらしい。想像できるか? その時代に生きていた連中はほとんどもう残っていないんだぜ?」
「…………」
「当時は、山を切り開いて列車を走らせた鉄道会社の保養施設として使われていたようだな。今じゃ、市はもちろん都からもこいつは歴史的建造物の指定を受けている」
哲矢は余計なことは口にせず、下段にいる彼の声に耳を傾けた。
何かとても重要なことを打ち明けようとしていると、そんな予感があったのだ。
「逆にこの街は市制に移行してからまだ半世紀ほどしか経っていない。こいつのまだ半分だ」
議事堂を指さしつつ、大貴の弁は徐々に熱を帯びてくる。
「それがどうだ? 今、桜ヶ丘市は衰退期にある。早ければあと10年ほどでニュータウンのほとんどは廃墟と化し、この街の人口は激減する。そうなると、少子高齢化が約束された日本ではいくら都心まで通える距離にあったとしても復興はほぼ絶望的となる」
「いや……本来なら都心に近いからこそ、地方の手本となるような実直な市政を示さなきゃいけない。だが、現実は目にした通りだ。ここにいる連中は、ほんの少し先の未来さえ想像することができないバカばかりだ。お前はこの現状を見てどう感じた?」
それは、父親が街の頂点に君臨したことで人生に責務という十字架を科せられた少年の悲痛な叫びのようであった。
それに対して哲矢には背負うものが何もなかった。
(どう感じたって、なんだよ……)
だから、大貴の抱える重責を想像することができず、つい安直に議員らを擁護する言葉が浮かんでしまう。
一括りに、街が誕生してから〝半世紀ほどしか経っていない〟と言われても、激流のような時代のうねりがその間にいくつも存在したはずなのだ。
そうした様々な多事多難の過程を経て、今の桜ヶ丘市がある。
何が悪で、何が正義か。
それをひと言で区別できるほど単純な問題ではない、と哲矢は考える。
だが、こうして揚げ足を取るだけでは解決に至らないこともまた事実であった。
「…………」
哲矢はただ黙って大貴の思いが収束するのを待った。
もちろん、彼は分かっているはずなのだ。
部外者に過ぎない哲矢がこの問いを答えるのは相当難しいということを――。
あれほど暖かく感じられた春の陽気は、鬱蒼とした陰りへと変貌していた。
青空には突如重い雲がかかり、石段は有象無象の妖怪たちの領分となったように違う顔を見せ始める。
そんな危うい雰囲気は、大貴の陶酔染みた笑い声によって一時霧散した。
「フフッ、ユリさんに入れ知恵されたわけじゃないんだな」
「ユリさん?」
「まあいい。ここまで来たなら、最後まで責任を持って付き合え」
意味深にそんな言葉を残すと、大貴は踵を返して階段を下り始める。
結局、全容は掴めず、大貴の本心まであと数歩届かないことを哲矢は実感するのだった。




