第191話 哲矢サイド-16
事務員の女はそのままデッキの手すりに両手をかけると、しっかりと哲矢の目を離さずに質問を投げかけてくる。
「それで」
「それで?」
「いや、あんたはなんで隠れてたのさ。また、ついて行くのを躊躇ってんのかい?」
まるで、最初から相手の弱点が分かっているみたいな話し方を彼女はする。
これで二度目だ。
そして、あまりにも真っ直ぐな問いかけに、哲矢はつい反抗的な言葉を返してしまう。
「べつにそういうわけじゃないですよ。もうあいつには帰れって言われたんですから」
哲矢は自分で放っておいてそのどす黒い響きの重さに驚いた。
受付事務の彼女もそんな当たりの強い返事が来るとは思っていなかったのか、目を大きく見開くと瞬きを何度か繰り返す。
だが、それも一瞬のことだ。
すぐにデキの悪い息子を慰めるような慈愛に満ちた顔を浮かべると、如才なく哲矢の求めている答えを提示する。
「そうかい。てっきりアタシにゃ、その逆に見えたんだがねぇ……」
「逆?」
「この目には、大貴がついて来ることを望んでるように映ったのさ」
「…………」
その言葉を受けて哲矢の頭はひどく混乱した。
(この人なに言ってるんだ? 大貴がついて来ることを望んでる……?)
確かに〝見せたいものがある″と言われ、ここまでついて来たのは事実だ。
強制的な力が働いていたわけでもなく、結果的にはすべて哲矢自身の手でこの道を選び取ってきたと言えるだろう。
だが、彼女は大貴の明確な意思が裏で働いていたと暗に指摘してくる。
まるで、哲矢の望みが初めから分かり、それをピンポイントで撃ち抜くような得体の知れない説得力があった。
助けを求めて飛び回る籠の中の鳥のように、見え透いた虚勢が悲壮感を周囲に立ち込ませる。
彼女は手すりに力を込めると、1階のカウンター付近に目を下ろしてヒントを分け与えるように、そっと小声で哲矢に耳打ちをしてきた。
「ほんの一瞬のことだったがね」
「え……」
「了汰さんと大貴がそこですれ違ったのさ。アタシも詳しいことは知らないが、彼ら親子の関係がそれほど上手くいってないことくらいは承知してるつもりさ。あの子は了汰さんに逆らえない。それで小さい頃から悔しい想いを抱いてきた」
「賢い子だからね、決して口には出さないが表情を見れば分かる。他の者じゃ想像もつかないような激しい怒りを内に秘めてね。まだ問題は解決されてないって、一目見て分かったよ」
彼女の口にする言葉は哲矢の想像通りのものであった。
やはり、大貴は父親である了汰に対して何らかの負の感情を抱いているのだ。
そして、ここへ来てからの大貴の表情が重苦しく秘書官への当たりが強かったのも、了汰とニアミスした経緯があったからなのだろう、と哲矢は確信する。
「まぁ親子の関係なんてそうすぐには改善されないもんだろうさ。本当に長い年月が必要な時もある。解決のためには、あの子の心と向き合う必要があるだろうね」
そこまで話し終えた女は、伝えるべきことは伝えたというように満足そうに大きく伸びをすると、デッキから離れて階段を下り始める。
「…………」
哲矢はそんな事務員の彼女の背中を見つめながらどう返答するべきか悩んだ。
安請け合いはできない、と思ったからだ。
これ以上、大貴のプライベートに深く足を突っ込んでもいいのだろうか。
肝心なところで、首に手をかけられないとも限らない。
こんな時、哲矢の脳裏を過るのは仲間の顔だった。
(メイ、花……)
この瞬間も彼女たちはそれぞれの問題と向き合っているに違いなかった。
だからこそ、哲矢はこの場から軽々と立ち去ることができなかったのである。
(……大貴の本心に近づくこと。これはやっぱりチャンスだ……)
腹の底で燻っていた種火が徐々に発火していくのが哲矢には分かった。
〝お前はもう帰れ〟
哲矢は、頭の中で何度もリピートされたその言葉を踏みつけると、大貴の行く末からもう目を離さないと心に誓う。
拳を強く握り締めると、哲矢は階段を降る女性事務員を呼び止めた。
「あ……あのっ!」
その声と共に彼女の足がピタリと止まる。
だが、その後に続く言葉が出てこない。
形ばかりを気にして細分化されたソースの中からどれを選び取ればいいのか、つい哲矢は迷ってしまう。
またも決定的な場面で哲矢の悪い癖が出てしまった。
けれど、彼女はそれさえも初めから見越していたかのように今度は度量ない夫の尻を叩く鬼嫁の立ち振る舞いへと変貌すると、臆面もなく励ましの言葉を口にするのだった。
「悩んでるなら追いかけな。あいつにはあんたが必要だ。助けてやってくれ」
それで哲矢の中で凝り固まっていた何かがストンと落ちた。
部屋のスイッチを切り替えるみたいに結論はシンプルだったのだ。
「は、はいっ……!」
哲矢の声を聞いて女は少しだけ嬉しそうにはにかむと、「ほら、そうと決まれば走った走った」と、邪魔者を追い払うように手を振る仕草を見せる。
こうして半ば強引に押し出される形で哲矢は階段を駆け足で下りた。
哲矢は正面の扉に手をかける。
心は不思議と軽かった。
振り返ると、階段のエンドキャップに手を当てて笑顔を見せる女性事務員がそこにいた。
その姿は暗がりの堂内でひと際輝く宝石のように哲矢には見えた。
ささやかな感謝の言葉を小声で呟くと、哲矢は扉を思いっきり開け放ち、まだ失われていない午前の中へと身を投じるのであった。




