第187話 哲矢サイド-12 / 本会議 その1
2階へと上がると、デッキにはすでに大貴の姿はなく、彼はとある扉の前で不機嫌そうに眉を吊り上げていた。
吹き抜けを横目に見下ろしながら早足で駆け寄る哲矢であったが、案の定嫌味を口にされる。
「随分、余裕がありそうだな?」
相変わらずのケンカ腰の言葉に思わず反論しそうになる哲矢であったが、迷いがあって遅れたことも事実だったのでここは素直に頭を下げることにした。
「悪い、ちょっと手間取った」
「…………」
さらに二言三言何か小言を言われることは覚悟していた哲矢であったが、珍しく大貴は神妙な顔つきで黙り込むと、「なに話してた?」となぜか不安そうに呟く。
「べつに。ただの世間話だよ」
大貴はどんな返答を求めていたのだろうか。
ここで彼の弱みに付け込み、質問を質問で返せば本音を聞き出すチャンスと成り得たのかもしれない、と哲矢はとっさに思った。
「ふーん……世間話ね」
そう呟く大貴は、右手の人差し指を弧を目の前の扉へ向けて突き出す。
扉の上段部分には銀のプレートが掲げられており、そこは【傍聴室】と記されていた。
大きな息を吸い込むと、大貴は意を決したように言葉を紡ぐ。
「いいか? この中で本会議が行われている」
そう口にする大貴の表情からは若干の緊張が窺えて、それが自然と哲矢にも伝染するようであった。
だが、よく考えればおかしな話であった。
一体自分は何に緊張しているのか、と哲矢は思う。
そもそも、なぜこのような場所まで来てしまったのか。
理由を探しても哲矢は見つけられない。
ただ、流されるようにここまで来ただけだからだ。
けれど、すでに批判できる立場にいないことを哲矢は理解していた。
結局、自らの意思でここまで足を運んだのだ、と哲矢は認識する。
いわば、これは立会演説会へ来るようにと大貴へ伝えた代償のようなものなのだ。
大貴は〝何か〟を見せようとしている。
その正体が何なのか未だに分からなかったが、なぜかその答えはこの扉の先に待っているように哲矢には思えた。
「分かった。入ろう」
ゴクンと唾を飲み込む音が相手にまで聞こえそうなほどの静寂。
その言葉を受けた大貴は、黙ってドアノブに手をかける。
やがて、扉は年季を感じさせる重厚な響きを軋ませながらゆっくりと開くのだった。
◇
傍聴室に足を踏み入れて哲矢の耳にまず飛び込んできたのは、ボソボソと何ごとかを話す男のマイク音声であった。
『――といたしましてぇ、火災予防条例のぉ……、あーっ、一部をですねぇ……、我々、市民生活委員は……』
まるで、弛みを捏ねくり回すような話し方だ、と哲矢は思った。
そんな声に気を取られていると――。
「おい」
先に中へ入ったはずの大貴に振り向きざま手を招かれる。
「券を出せ」
「券?」
反射的に大貴の視線を目で追うと、その先には係員の姿があった。
「下で貰ったんだろうが」
「あ、ああ……」
じれったそうに眉をひそめる大貴の表情に触発され、ようやく事態を把握した哲矢はブレザーのポケットに仕舞っておいた傍聴券を慌てて取り出す。
大貴は、それをすぐに奪い取ると、係員に「二人で」と言葉を添えて手渡しする。
チェックを受けた哲矢たちは、晴れて正式に入室を認められた。
(へぇ……こんな場所なんだ……)
そこで哲矢は改めて周囲を見渡す。
よく観察すれば、2階の傍聴室はバルコニーのように1階の大会議室を見下ろせる形状をしており、両階は完全に分離されたホールのような構造を取っていた。
大会議室には、スピーチを行うための演台のほか沢山の机や椅子が並べられ、それぞれ議長席、執行部席、議員席とに分かれて議員らが腰をかけていた。
そんな光景は哲矢に国会中継などで見かける議事堂のミニチュアを連想させる。
規模はそれほど大きくないかもしれないが、本場同等の厳格さがホール全体を支配しているように哲矢には感じられた。
傍聴室は、全部で五十人ほど座れそうな劇場椅子が用意されていた。
まばらながら人の姿も見える。
そのほとんどは高齢な層で占められていた。
大貴は、今朝のように声をかけられることを警戒してか、傍聴に来た者の後ろを縫うようにして進むと、入口から一番離れた端のエリアで席を確保する。
哲矢もその近くに腰をかけると、斜度の関係から大会議室に座る議員の表情をよく覗ける恰好となった。
意識を現実の音に集中すれば、先ほどの男の声が聞こえてくる。
こうしている間にも、男の話し声は途切れることなく続いていた。
『――あーですからぁ……。瓜生美術館のぉー、防火コンクールをですねぇ……えー……』
演壇を見下ろせば、恰幅のよい体に不釣合いの長い髪を伸ばす議員の姿が確認できた。
ようやく、哲矢の中で男の声と顔が一致する。
彼は額から零れる汗をハンカチで拭い、鬱陶しそうに髪をかき分けながら、演台に置かれた紙に目を落としてさらにボソボソと何かを読み上げていた。
結局、どんな話をしているのか哲矢にはさっぱりであったが、その口ぶりから特に切迫した内容ではないことだけは窺い知ることができた。
それよりも哲矢が驚いたのは、男の話を聞く他の議員らの態度であった。
彼らの顔は一様に疲労や退屈といった感情が色濃く浮かんでいた。
中には目を瞑り俯く者さえいる。
(な、なんだよ……これ……)
それは、授業中に見る不真面目な生徒らの態度と何一つ変わらない。
高価なスーツに輝くバッジを身につけて厳粛な椅子に座り、腕組みをする彼らではあったが、その中身は自分たち学生とさして変わらないのではないか、と哲矢には思えてしまう。
仮にも桜ヶ丘市の代表者であるところの議員がこのような慢性的堕落のサイクルに陥っていることに哲矢は少なからず衝撃を受ける。
そんな心情とリンクするように、大貴が顔を歪める瞬間を哲矢は見逃さなかった。
『あーはい、はい。澤本さん、ありがとうございます。時間ですのでこの辺りで……』
延々と終わる見込みのないスピーチを続ける大柄な議員を見かねてか、ここで議長席に腰をかける白髪交じりの気弱そうな高年の男が止めに入る。
彼が手を差し出すポーズを見せると、演壇上の議員は時間を忘れて話し続けてしまったことを恥じるように、慌てて演台の書類を片づけ始めるのだった。
男が会釈をして席に着くのを見届けると、議長は眠たそうな厚ぼったい瞼をしばしばと瞬かせて議題を次へ移行させるようだ。
『えー次はー……あ、はいはい。では、都市整備部の弓手さん。前へどうぞ』
そのマイペースな進行具合に多くの議員は辟易している様子で、不満そうな表情を惜しげもなく披露していた。
そのどれもがいち高校生に過ぎない哲矢にとっては刺激が強すぎた。
まだ、通い始めて一週間しか経っていなかったが、この街に対する哲矢の印象は悪くなかった。
むしろ、第二の故郷として愛着さえ抱き始めていたのだ。
その分、哲矢のショックは大きい。
〝大人の世界は汚い″と耳にすることはあっても、実際そうした場面に遭遇する機会は哲矢の場合ほとんどなかった。
良い方に捉えれば純朴な環境で育ったと言えるが、悪く捉えればただの世間知らずに過ぎない。
もしかすると、大貴との一番の違いはこの経験の差にあるのかもしれない、と哲矢は思った。
(来なきゃよかったかも……)
哲矢は完結した箱庭でぬるま湯に浸かる議員たちを見下ろしながらそんなことをふと思う。
(多分、大貴が見せようとしてたものって……これなんだよな)
しかし、そうだとすれば一体彼は何を期待しているというのだろうか。
(……こんなの見て、どうしろって言うんだよ……)
大貴の意図が依然として分からず、哲矢はただ彼との距離を感じるのであった。




