第183話 哲矢サイド-8 / 大貴と秘書官 その1
「……ああ。立会演説会に参加してほしいんだ」
哲矢は隠すことなくはっきりとそう口にした。
それに対して、大貴は「フッ……」と短く鼻を鳴らす。
まるで、このことすらも予見していたかのような不気味さがそこにはあった。
「もう少し上手いまとめ方はできなかったのか」
「え……?」
「まあ、いい」
話を一方的に区切ると、大貴は首を元に戻す。
背中で「用件はそれだけか?」と語られているような気がして、哲矢は慌てて首を縦に振った。
それが会話の切れ目となった。
大貴は再び一本道の廊下を進み始める。
自信ありげな態度とは裏腹に、その歩調はわざわざ死地へと足を踏み入れて自らを卑下しているような危うさがあった。
そして、その見方は間違いではなかったことを後に哲矢は知ることとなる。
◇
哲矢は首から下げた入庁証明のホルダーを揺らしながら大貴の後に続いて廊下を進んでいく。
やがて、【市長室】とプレートが掲げられた扉の前に二人は到着する。
エレベーターホールから続く一本道は予想通り市長の部屋へと繋がっていたようだ。
扉二枚、木目調にデザインされたそれが『この場所こそ街の始点である』と誇らしげに主張しているようで、ますます近づき難い印象を哲矢は受ける。
けれど、大貴は相変わらずそんな哲矢の心情を気にする様子もなく、すぐに行動へ移ってしまう。
扉の横に備え付けられたインターホンを慣れた手つきで操作すると、ややしてから落ち着きのある女の声が返ってきた。
大貴の後ろに立ってその始終を見守っていた哲矢には話の内容まで聞き取ることはできなかったが、到着を待ち侘びていたという相手の安堵にも似た空気だけは嗅ぎ取ることができた。
その後、巨大な二枚扉が静かに音を立て開くと、中からフォーマルな黒のスーツに身を包んだ女が姿を現す。
「お待ちしておりました」
セミロングヘアの襟足を綺麗に整え、大和撫子を連想させる華奢な外見とは裏腹に、通りのいいはっきりとした声を響かせて女は頭を低く垂れる。
大貴の姉と言われても信じてしまいそうなほどの容姿の彼女は、外見だけでは年齢の判別が難しい不思議な魅力があった。
対する大貴は学生鞄を女に向けて無造作に放り込むと、「親父は?」とひと言素っ気ない言葉を返す。
「この後、9時から市議会の本会議に出席されるご予定で先に向かわれております」
大貴の高圧的な態度に臆することなく、女は適切な言葉を素早く切り返す。
その場面を目撃しただけで彼女がどれほど有能で隙がないか、哲矢にはよく理解できた。
「お言伝と書類の整理が終わりましたら私も伺う予定です」
「ふーん」
さすがの大貴もこれには相槌を打つに留まる。
興味なさげに頭の後ろで両手を組む仕草を見せるが、彼女には敵わないと内心感じているのかもしれなかった。
続けて女は習慣的に染みついた動作を反芻するように懐から大きな手帳を取り出すと、それに目を落としながら市長の一日のスケジュールをすらすらと読み上げていく。
おそらく、秘書官なのだろう。
あからさまにウンザリしたポーズを作り、ふて腐れる大貴であったが、そんな態度を横目に見ても彼女はまるで気にする様子もなく読み上げを続けていく。
(うわぁ、怖ぇー……)
あの大貴でさえ丸め込まれてしまう辺り、相当肝の据わった人物であることが容易に想像できた。
結局、大貴はそれからしばらくの間、彼女の報告を黙って聞き続けることとなる。
「――それで、18時からは先ほど申し上げました通り、青井建設社長様主催のパーティーにご出席される予定となっております」
網目を一点ずつ潰すような秘書官の話に動きを封じられていた大貴であったが、その話題が出されると彼の鋭い眼光が彼女を捉える。
「分かってると思うが」
「はい?」
「俺はそこまで付き合う気はないぞ」
「…………」
この時ばかりは秘書官の女も話を一時的に中断し、熟考する姿勢を見せる。
大貴の性格をよく理解しているのだろう。
この状況で発言を続ければ火に油を注ぐ結果は目に見えていた。
神妙に黙り込む彼女の姿は、初めて見せる人間らしい一面であるように哲矢には思えた。
だが――。
この後、事態は思わぬ方向へ転ぶこととなる。
少しの間を空けてから秘書官は口を開くのだったが、「まあ、それはそれとして……あの……」と、何かを気にするような声を上げる。
「なんだよ」
違和感を覚えたのか、大貴はすぐに彼女に訊ねた。
そんな二人のやり取りを遠めに眺めながら哲矢は彼女の心中を察する。
きっと、大貴にもパーティーに出席してほしいのだろう、と。
当事者ではない哲矢にとってそれは微笑ましい一場面に過ぎなかった。
しかし、秘書官の視線が哲矢に向けられると、悠長な考えは泡となり消えてしまう。
(っ……)
突然の出来ごとに状況が飲み込めず、哲矢は混乱する。
最初、何かの間違いかとも思うのであったが、突き刺さる視線はやはり大貴ではなくその後ろに隠れる哲矢を捉えていた。
全容が判明するにつれ、哲矢の本能が警鐘を鳴らし始める。
(……な、なんだよ……)
その纏わりつく視線には強固な意思が込められていた。
絶対に逃さないという、獲物を狙う狩人と同種の執念を感じ、哲矢は瞬時に恐怖を抱く。
嫌でも彼女の感情の機微が情報として哲矢の脳裏に飛び込んでくる。
まるで、すり替える議題が見つかったことを歓喜するように、秘書官の女は口元に不敵な笑みを灯す。
そして、刑の執行人の如く、有無を言わさぬ口調でこう続けるのだった。
「後ろに隠れるそのお方は一体どちら様ですか?」




